2019.02.11 「始めに思考ありき」
そんなこんなで、まだラムサの『ホワイトブック』を、ちょびちょび読んでいる。
なかなか読み進められないのは、基本的に話が荒唐無稽だから、だろう。
ずーっと読んでいると、さすがに「んな、アホな」と食傷気味になってくるワケだ。
で、例えば、どんなことが書いてあるのか。
今回のメモで、気になった部分を少しご紹介してイキたい。
ちなみに、ラムサというのは、どこぞのオッサンが霊を降ろした系のチャネリング系の語り手である。
オッサン・・・・かな?
たぶん、そう。
知らんけど。
ドーでもイイけど。
いずれにせよ、語られている内容は、つまりはイタコ状態で語られたもので、言ってみれば「世迷い言」である。
で、その内容はと言えば、いわゆる「一元論」である。
一元論ってのは、「すべてのモノは、根源的なたった一つの物質から生み出された」という考え方のコトだ。
そして、この一元論ってのは「引き寄せの法則」の源流となっているニューソートの考え方である。
実際、ラムサの語っているのも、基本的にはニューソートの流れを汲むものだと言える。
ニューソートは、宗教改革で有名なカルヴァンにぶち殺されたっつーか、焼き殺されたセルヴェトゥスって人が元祖っぽいぞと言われている。
って、この話、何回すんだよ。
で、だ。
「引き寄せの法則」の現実的な理解を標榜する当研究所としては、「ラムサすげー」とか、「これはマジで、間違いない現実の話だわー」とかは、もちろん言わない。
考えたいのは、ラムサが語るコトから、何を利用できるかというコトだ。
チャネリングの状態ってのは、一種の催眠状態であるから、「こうなんじゃねぇーの」的な考えが、全開になった状態で披瀝された思想である。
知らんけど、たぶん、そーだ。
で、「何でもイッて構わないんだとしたら、ホントはこーなんじゃないか」って考えの中には、常識的な判断の中では語りえないモノが含まれている、と思われるワケだ。
そして、その考えを参考にすれば、上手に取り入れることで、色々と成し遂げたいこと、つまり、様々な成功のために、役立てるコトができるのではないか!!!!!!!!
という話である。
伝わっただろうか。
全然、伝わってない感じがするが。
まぁ、文章なんて、そんなもんだ。
で、前置きが長くなったが、ラムサがどんなコトをイッているのか。
ちょっと引用してみよう。
引用元は、『ホワイトブック』ラムサ著、松野 健一・後藤雄三訳、星雲社 2007、からであーる。
例えば、こんな感じだ。
あなたに起こることはすべて、考え、感じることによって、あなたが自分で人生にもたらしたのだ。P57
まぁ、これなどは、完全に「引き寄せの法則」の考え方と符合するモノだね。
他にも・・・
あなたが自分自身の思考に対する価値判断を克服することを学び、すべての思考を受け入れることを自分に許せばmあなたは自分が思い描くどんな理想像にもなれる力と能力を持つことができる。P91
という話は、「引き寄せの法則」の大家ヒックス夫妻の「許容し可能にする術」という話とまったく同じだと言える。
てな具合、なんだが・・・
「引き寄せの法則」と同じような考えばかりを見ても、ある意味、しょーがないので、こういうのも引用しておこう。
「父なる神」とは、生命と呼ばれる強制的で思索的な思考のことである。P101
思考からすべてが生まれるってのは、まぁ「引き寄せの法則」の基本的な考えではある。
とは言っても、その思考の連なりこそが「神」なんだってのは、色んな人が書いた「引き寄せの法則」の本を読んだが、聞いた覚えがない。
感じがする。
それからまた、「この世にあるすべてのモノがなぜ生み出されたか」についての答えとして、こんなコトが語られている。
生きることにおいて最も重要な宝物である叡智というものを獲得するためだ。叡智とは知的な理解ではない。それはまさに、体験によって得られる感情的な理解なのである。P122
とにかく、考えや理解、それを可能にする知恵が重要、というコトのようだ。
とまぁ、いまんとこそんな感じだが・・・
まだ読んでる途中だし、長くなったので、また書くワ。
2019.02.20 「地獄を求める人々」
引き続き、ラムサの『ホワイトブック』を、思索を重ねながら読んでおる。
のだが、コレの本が何をしてるのか、何をしたいのかについて考えてもおる。
何をしたいかっつーと、まぁ、勝手に自己催眠状態になったオッサンが、世迷い言を言っていて、それを伝えたいだけって話なんだろうが・・・。
そーゆー意味じゃなくて、この本で主張されている内容によって、何が実現されようとしているのか、って話だ。
「引き寄せの法則」を含むニューソート系の考え方一般に言えることだけれども、その主張は要するに、「どこまで自分に都合よく考えることができるか」って話だと思う。
例えば、旧来の宗教観だと、だいたいは天国と地獄みたいなもんがあって、ダメなヤツは死後に地獄に送られる、とされているワケだ。
ただ、それというのは当然ながら、自分自身もまたそっち側になっちまう可能性を秘めているっつー話になる。
で、そのこと自体を「うれC!」「サイコー!」と思うようなヤカラは、ほとんどいないワケだ。
なぜなら、そもそもヒトが嫌がるようなトコロとして、地獄が想定されているからネ。
そして、そんな一般的な宗教観ってぇのは、個々の人間からパワーを奪ってもいる。
「自分はダメかもしれない」と思って生きるコト自体が、パワーを失わせるものであるからサ。
とは言え、まぁ一方では、「自分はOKな側だ」というコトを経済的な成功によって裏付けようとする心理もあって・・・
その辺りは、マックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で語ったコトであるワケだが。
カンタンに言うと、
- プロテスタントには、カトリックと違い、「懺悔」っつーシステムがない。
- なので、自分が天国に行ける側なのかどーかは、死ぬまで不明。
- だから、お仕事を頑張って成功させるコトで、オレはOKな側だと、間接的に証明しようとする。
- ってな感じの心理があって、それによって資本主義を成立した。
って話ですわナ。
逆に言うと、そーゆーノイローゼ的な思考なしでは、無限に富を積み上げようとするよーな資本主義なんてぇモノは成立しようがなかった、ってコトですわな。
まぁ、それはさておき、「地獄がある」って考え自体が、それを信じているヒトをノイローゼ的にさせるのは、間違いのない話だ。
それがアホみたいなカネ持ちを出現せしめるパワーの根源にもなりうるのだが、ただそーゆー人間ですら、ホントにハッピーかと言うとゼンゼンそーじゃない。
なぜなら、資本主義社会で成功したヤツは天国にイケるよ、なんて、そもそも誰も言ってないからネ。
誰も言ってないのに、経済的な成功によって証明しようとする辺りが、完璧にノイローゼなんだけどさ。
笑っちゃうね。
何をジタバタしとんねん、って感じデスわ。
そんなこんなで悪いのは、そもそも地獄があるなんつーアイデアだってコトは、子供にだって分かるだろう。
現実的に解釈すれば、「地獄に行く」なんて考えは、施政者側が一般ピーポーを支配するための道具にすぎないワケなんだが。
とは言え、「そーゆー報いがないんだったら、悪いことをしても捕まらなければイイってコトになっちまうの?」って疑問もある。
なので、因果応報で勧善懲悪な、信賞必罰的世界観を多くの人間が捨てきれない、ってーのも真実なんだろう。
つまり、そんな方々は、間接的に地獄を求めているワケだ。
「自分はイキたくないけど、(自分がそう思う)悪いヤツらはイカせて欲しい」というコトだね。
ただそこには、何度も言うとおり「必要だと思うけど、自分でも地獄は怖い」っつー感じの、矛盾した心理があるワケだな。
じゃあ、そーゆーときには、一体ドー考えればイイのか。
例えば、そんなコトに答えを与えようというのが、例えばこのラムサの『ホワイトブック』であるワケだ。
長くなったんで、続きは次回。
そいじゃ、また。
2019.02.28 「願望実現のための方法」
ラムサの『ホワイトブック』を、やっとこさ読了した。
なので、そこから、「願望実現のための方法」を引き出してみようと思う。
この本というのは、基本的に、ニューソートの本だ。
何度も繰り返しているとおり、「引き寄せの法則」も「成功法則」も「ポジティブシンキング」も、ニューソートから生まれたものである。
そして、ニューソートの思想の基本は、一元論にある。
一元論ってぇのは、「すべてのものは、ただ一つの根源的な物質から生まれた」とする思想のことだ。
また、ニューソートの徒は、その根源的な物質のことを「神」と読んでいたりもする。
「すべては神から生まれ、すべてには神が含まれる」ということになるので、一種の汎神論とも言える。
当然、人間の中にも神性が宿っているということになり、それを開放するのが、一つの目的ということにもなる。
などと、こんな話をしているけれども、もちろん、「ニューソートの思想をそのまま信じろ」といった話をしたいワケではない。
「根源的な物質を神だと思い、それが自分にも含まれるということを信じて、自分の望みを実現せよ」と、誰かが言ったとしよう。
でも、普通の人はきっと、「んな、アホな」ということになるだろう。
そして、このサイト自体も、そんな「アホな」な説明をそのまま飲み込めと主張しているワケではない。
もっと現実的な解釈をしてイキたいというのが、当研究所の基本的な考えでもある。
では、ドー考えればイイのか。
それは、逆向きに考えることだ。
つまり、こーである。
ニューソートというのは、自分の中に神が含まれているという荒唐無稽な話を持ち出すことによって、自分たちが持っている願望を達成させるチカラを開放させようとしているのだ、と。
ちと、分かりづらいかもしれんので、順番に説明しよう。
まずもって、人間っちゅーものは、色んな企てってモノを持っている。
それは、カネ儲けでも、モテでも、何らかの栄誉を獲得するのでも、何でも構わない。
そして、そんな企てっつーヤツの中身を、実現させようとしている。
で、実現させるコトができたら、それが一般的な意味で言われるところの「成功」ってヤツだって話になる。
そして、その「成功」ってヤツのために、様々な物語を援用しようともする。
それはつまり、成功に寄与すると信じられている物語のことだ。
例えば、「求めよさらば与えられん」というのは、イエスが語った物語だ。
けれども、多くの人間はきっと、「求めても与えられない」と答えるだろう。
他にも、「努力は裏切らない」という物語が、真実だとされたりもする。
あからさまな事実として、努力が成功を約束するワケでもないのに、だ。
また、間違った努力が成功を遠ざけることさえあるのに、である。
そんな流れの中で、ニューソートは、「誰にでも神性が宿っている」という物語を主張している。
これは、何を意味するのか。
この物語によって、何を分からせようとしているのか。
あるいは、何を思い込ませようとしているのか。
そこに、カギがある。
そして、そのカギを理解するコトで、「成功」がぐっと近づくというコトになるワケだ。
それは、言ってみれば、成功の秘密である。
「成功の確率を圧倒的に上げるためには、何が必要なのか」という話であるからだ。
さて、もう少し、歩を進めてみよう。
何事かが成し遂げられる際には、それに先立ち「イメージする」というコトがあるっつーのは、よく言われるコトだ。
つまり、「初めにイメージあきり」ということだ。
どんな発明も、現実になる前には、発明した人間の頭の中にイメージとしてあったワケだ。
まずイメージがあり、それが実現する。
それはまさに、「物の道理」というヤツだ。
さて、であるにもかかわらず、イメージしたコトがそのまま実現するワケではない。
そして、多くの人間は、こんな風に思っているコトだろう。
「自分が望んでいるイメージは、実現しない」と。
しかし、すでに書いたように、「人間界の多くの出来事は、誰かがイメージしたコトから生み出された」ってコトもまた、知ってはいるワケだ。
だから、そこには越えがたい溝があるってコトになる。
つまり、「自分のイメージは実現しない」が「スゴイ人のイメージは実現する」と思っているのが、ほとんどの人間だという話である。
分かるだろうか?
つまり、多くの人は、「実現するイメージは、私のモノではない」と思っているワケだ。
もうちょっと正確に書くとすれば、「望ましいモノで、ある程度以上大きな、しかも現実化するイメージは、私の頭にはない」というコトである。
加えて、「イメージを実現するためには、多大な努力が必要だ」とも考えていると言ってイイだろう。
そして、このような状態で、それなりに大きな何事かを成し遂げるのは、まさしく「至難の業」である。
なぜか。
それは当然、自分自身で「ダメだ」「ムリだ」と思っているからだ。
そう思っていると、そのとおりの現実を引き寄せるための情報しか、入ってこなくなる。
そして、実際にそのとおりになるのである。
では、ドーすればイイのか。
「これは実現する!」と思えるような、望ましいイメージを持てるようになればよい。
というコトになる。
それは、そーだろう。
まずは、そこがスタート地点であるからだ。
そーゆー思いがなければ、実現のために準備をしていくことさえ、難しくなってしまうからだ。
けれども、やっぱりそこにも問題がある。
つまり、望ましいイメージを持つという、まさにそのコトができない、というコトだ。
それがまた、いつもどおりの、自分であるというワケだ。
何が、欠けているのか。
重要なのは、それだ。
そして、その問題こそ、ニューソートが神なんてモノまで持ち出して目論んでいるコトと重なる部分なのだ。
「成功のカギ」に関わる部分だ。
説明は荒いが、大事なコトを話している。
伝わっているだろうか?
答えをお教えしよう。
そのカギとは、「許す」というコトだ。
自分のイメージは実現しない、と思うというコトは、実現するようなイメージを自分に許せていないというコトだ。
だから、単純に言うなら、ただ許せばイイってコトになる。
実際、『ホワイトブック』でも、「許す」というコトの大事さが語られている。
自分に知ることを許せば、あなたはすべてを知る。P244
あなたが創造的な思考を望んでいる時に、突然それを受け取ることを可能にしてくれたのは何なのだろうか?あなたは単にその思考があなたの「知っている状態」へと入ることを許しただけなのである。P251
自分自身に対して慈愛の心を持ち、自分の思考やフィーリングへの気づきが自分に教えてくれるのをただ許すのだ。P254
大それた夢を、そんなイメージを、自分でも思っていてイイと考えられるというコト。
あるいは、それこそが自分にふさわしいと思えるというコト。
重要なのは、そんな「許し」である。
「なったらイイなぁ」ではイケない。
それは、「自分にはふさわしくないけれども、そうだったらうれしい」と言っているにすぎないからだ。
ココに至って、問題は次のところに移動したことになる。
つまり、「ドーすればデカい望みも、自分にふさわしいと思えるようになるか」である。
それは、ドーすれば自分を許せるか、というコトにもなる。
実際、「デカい夢を自分に許せ」と言われても、困ってしまうことだろう。
つまり、「そんなん、ドーやって?」というコトになる。
そこで登場するのが、ヒックス夫妻の言う「許容し可能にする術」というヤツだ。
(「許容し可能にする術」についての詳しい説明は、この記事を見てくれ給へ。)
これは単純に言うなら、「人が何をしようと気にせず、受け流し、自分が望むコトだけに注意を向けろ」って話だ。
なぜこれが重要かと言えば、「許容し可能にする」状態になったら、それは周囲の人間を許した状態になるからだ。
そして、それがまた、自分で自分を許すという状態を引き連れてくるからである。
人が何をしようと否定しようとは思わない自分になると、自分自身もまた否定される必要はないんじゃないかという実感がしてくるワケだ。
そうすると、大それた夢を、自分が叶えるべきモノと捉えても、誰も文句を言う必要はないと思えるようになる。
そしてまた、自分でも叶えてもイイというコトが分かるようになるって話なんだ。
「人に寛容であれ」というのは、昔からよく言われる人生訓ではある。
けれども、その意味は、「寛容になれば、余計なトラブルが減らせたり、周囲から尊敬されるよ」なんて話ではない。
そうではなくて、「自分がどんな夢でも叶えられる自分になるコトを、自分でも許せるようになるよ」という意味なのである。
そして、「そうなってこそ、夢を叶える扉が開かれる」という話なのだ。
分かったかね?
それじゃ、また次回。
んだな。