
ミンナ、頑張ってんだよ。
まぁ、意図して頑張って発揮できるパワーなんて、たかが知れてるんだけどナ。
今回は、「努力は要らない」という話です。
努力という言葉を辞書で調べてみると、「力を込め、あるいは力を尽くして励むこと」というようなことが書かれています。
他にも、「怠けず、休まず当たること」などという意味でもあるようです。
このような「努力」を、多くの人が賛美します。
しかしおそらくは、少なくとも4つの問題点が存在します。
順番に説明していきますが、確かに言えるのは「多くの人が、努力を過大評価している」ということです。
そしてまた、そのこと自体に毒されているということです。
人間が陥ってしまう安易な物語、その罠を理解することが肝要です。
なぜなら、それが分からなければ、そこに閉じ込められてしまうからです。
この記事を書いているコンドーさんは、「引き寄せの法則」研究歴10年以上。
関連書籍を100冊以上読み、いまでも思索と実践を続けています。
ということで、今回は「努力無用論」を展開します。
何が人間を邪魔しているかを、よく見てください。
もくじ
努力の罠(その1:単純化)

努力の問題点の一つめは、努力を重要視している人たちが持つ、ものの見方にあります。
努力を重視する人たちの多くは、現実を単純化して見ています。
それはつまり「自分が望む状態になることを邪魔するものがあって、それを打破するのが努力だ」というものです。
そして、この解釈は「努力によって邪魔するものを打ち壊せば、成功がつかめる」という物語に行き着きます。
要するに、「努力をすれば成功できる」と勘違いをしているわけです。
それは言ってみれば、「どんな迷路も片方の壁をつたって進み続ければゴールにたどり着ける」という類いの考えです。
けれども成功までの道のりは、人間が作った迷路のように単純にはできていません。
ですから、愚直さだけでは必ずしも現実のゴールにはたどり着けないわけです。
「主人公が修行によって強くなり敵を打ち負かす」というのは、多くの小説や映画、漫画において繰り返される物語です。
それは、多くの人の気に入る「世界の単純さ」「単純な世界観」を受け入れているがゆえに人気があるわけです。
人々はこのような単純な物語に溜飲を下げながらも、現実がそうできてはいないことを無意識的に感じ取っています。
問題はそこで、つまりそうした引っ掛かりを心に残したままでは、力強く進むことはできないという点にあります。
しかしより詳しく言うとするなら、単純化そのものが問題というわけではありません。
子供のようにその世界に没入し熱狂していられるのなら、それはそれで構わないからです。
けれども実際には、ほとんどの人は「本当はそうじゃない」と感じてしまうわけです。
そして、そう思いながらも、見て見ぬふりをして進もうとします。
そこにある違和感を放置することが、大きな問題なのです。
なぜなら、自分を無視することは、自分を侮辱することであるからです。
単純化とそこから生まれる違和感、か。
自分を無視していては、遠くまでは歩いていけないんだヨ。
努力の罠(その2:自己目的化)

努力の問題点の二つめは、自己目的化です。
つまり「努力というのは、それをすること自体が目的になりやすい」ということです。
「努力が大事だ」とする人の多くは、努力をしている自分自身を肯定しようとします。
たとえ望む状態にまったく近づいていないとしても、です。
「今日も一生懸命、頑張った」と思いながらベッドに潜り込むことで、「今日一日はOKだった」とするわけです。
とは言え、ゴールへの予感もなしに終わる日が続けば、そのことへの疑いからは逃れることができません。
つまりそこには、二つの方向に引き裂かれている自分がいます。
努力をしている自分を肯定したい自分と、しかし目標に接近していない自分を否定する自分とです。
また、そんな状態に陥っているときには多くの場合、人は努力に逃げ込もうとします。
つまり、より以上に努力をすることで、ただその事実によって自分を肯定しようとするわけです。
それは実直で誠実な姿などではなく、ただ現実から逃避しているにすぎません。
「努力」と言えば、「逃げないこと」というイメージがあるかもしれません。
けれども、「逃げない」ということに逃げこむ場合があることを知っておく必要があります。
また、先のセクションと同じことですが、問題は努力に逃げ込みそれを盾にすること自体ではありません。
それに違和を感じながら放置し続けることに、大きな問題があるのです。
努力の罠(その3:困難の引き寄せ)

努力の問題点の三つめは、自ら困難を引き寄せてしまう点です。
これは先のセクションで説明した自己目的化の結果として生まれるものです。
自己目的化によって、努力の人というのは必要以上に努力にこだわる傾向があります。
何らかのハードルを設けて、それをクリアしたかと思えば、またすぐに次のハードルを設定するわけです。
このようなことを続けていると脳内には、クリアすべきハードルを見つけ出すセンサーができてしまいます。
日頃から注意を向けているものには、敏感に反応するようになるのが当然のなりゆきだからです。
言ってみればこれは、自ら困難を引き寄せているということです。
努力の割に実を結ばない人が多い理由の一つが、ここにあるわけです。
そもそも実現したいのは、「困難を次々と見つけ出して、順番にすべて潰していく」ということではないはずです。
もちろん一つの困難をクリアしたら、多少の達成感はあることでしょう。
「また一歩ゴールに近づいた」と思えるかもしれません。
しかし、問題点や困難に意識を注ぐことは、考えられている以上に危険があります。
例えば、スポーツ選手がフォームを矯正して全体のバランスを崩すようなことが、よく起きてしまうわけです。
意識を向けたものは、引き寄せられ現実化しやすくなります。
それが法則です。
べつに、それを望んでるワケでもないのに、多くのヒトがそれをヤッちまってるってワケなんだ。
努力の罠(その4:マインドの誤り)

努力の問題点の四つめは、初めから心に持っているマインドに不具合があるという点です。
スタート地点から問題があれば、なかなかうまく行かないのは、当たり前の話と言えるでしょう。
さて、次の点を考えてみてください。
そもそも「努力が必要だ」と考えるのは、なぜでしょうか。
それは、「いま現在の自分ではゴールにたどり着けない」と考えているからです。
もちろん、実現させたいことというのは「すぐ簡単にはできないことだから、目指している」ということではあるでしょう。
しかし「多大な努力が必要だ」とあまりに強く考えるのは、望ましいことではありません。
なぜなら、それは自分自身に「簡単には実現できないほど、実力が足りていない」と言い聞かせることであるからです。
世に思われている以上に、自己暗示の力は強いものです。
オリンピック選手はなぜ、イメージトレーニングをするのでしょうか。
それはもちろん、自己暗示によって自分の能力を呼び覚ますためです。
おそらくこの事実については、大抵の人が知っていることでしょう。
けれども、残念ながら多くの人は「自分とはあまり関係のない話だ」と思っているようです。
「関係がない」などということは、決してありません。
自己暗示からは、誰も逃れることができないからです。
また負の自己暗示は、自分で自分に呪いをかけるようなものですから、適切に取り除くことが大切です。
「がんばらなきゃな」と思うコト自体が、ある意味ではまちがってるんかよ。
「そんながんばんなくても、できるっしょ」くらいのキモチでいた方がイイとさえ言えるんやで。
不要ではなく無用

世の中には、「努力不要論」と呼ばれるものがあります。
けれども、この記事に書いたのは「努力無用論」です。
「不要論」の方は、「努力は要らない」「なくても成功できる」という意味合いなのでしょう。
しかし、ここまでに書いたように努力には様々な問題点、不具合があります。
ですから「要らない」のではなく、本当のところは「ない方がよい」のです。
「不要」というのは、文字どおり「要らない」ということでしょう。
一方「無用」という言葉には、「しない方がよい」「してはならない」という意味が含まれています。
だから、記事のタイトルを「努力無用論」としたわけです。
努力をしてはいけません。
努力というのは「努めて力を出す」ということで、何かを自分に強いることです。
そんなことをすれば、始めた時点ですぐに必ずパワーは落ちてしまいます。
では、努力をせずに、どうしたらよいのでしょうか。
「引き寄せの法則」では、どういう風に教えられているのでしょうか。
その点について、次のセクションで見ていくことにしましょう。
「ガムばらなきゃな」と思うコト自体が、ある意味ではまちがってるんかよ。
「そんなガムばんなくても、デキるっしょ」くらいのキモチでいた方がイイとさえ、言えるんやで。
オールを手放せ

「引き寄せの法則」の大家であるヒックス夫妻は、その著書の中で「努力」の滑稽さについて説明しています。
少し引用してみましょう。
川べりにカヌーを運んで、急流に浮かべるところを想像してください。カヌーにはオールがついていて、皆さんはわざわざカヌーを上流に向けて、流れに逆らって一生懸命に漕ぎ始めます。わたしたちに言わせれば、どうして方向を変えて流れに乗らないか、というところです。P351
するとたいていの人は言います。<中略>だってそれなりのことを成し遂げたいと言う人たちはみんな、もっと一生懸命に努力しているんだよ。流れに乗るなんて、怠けているみたいじゃないか。P352
わたしたちがぜひとも皆さんに聞いてもらいたいと願うことを言わねばなりません。「上流にはあなたがたが望むものは何もない。上流にはあなたがたが望むものはいっさいない」と。P353
『実践 引き寄せの法則 感情に従って“幸せの川”を下ろう』エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス、吉田 利子訳(SBクリエイティブ)2008
このようにヒックス夫妻の喩えでは、「努力」は「上流に向かって流れに逆らいながらオールで漕いで進むようなもの」とされています。
では、勧められている「流れに乗る」というのはどういうもので、どうすればよいのでしょうか。
そこで「オールを手放せ」という話が出てきます。
いつ、どこでも、向きを変えて流れに乗ることはできます。いつ、どこでも、です。それどころか、向きを変えて流れに乗る必要すらない。ただオールを手放せばいいのです。あとは流れがやってくれます。P357
ただ流れに逆らっている今の行動をやめる、それだけでいい。あとは「流れ」が向きを変えて、あなたがたを運んでくれます。P358
ただ、ホッと気持ちが楽になる考え方を探す、それだけでいいのです。P368
『実践 引き寄せの法則 感情に従って“幸せの川”を下ろう』エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス、吉田 利子訳(SBクリエイティブ)2008
もしかすると、「一体、何の話だ?」と思うかもしれませんね。
ヒックス夫妻は完全にスピリチュアルな世界の人なので、こんな説明の仕方になっているわけです。
しかし、このサイトの方針は「引き寄せの法則」を現実的に解釈するというものです。
ですから、やはりここでも現実的にどういう話なのかをご説明しましょう。
ヒックス夫妻の説明は単純に、無意識についての話だと考えることができます。
つまりは、こういうことです。
「努力」をするとき、人は意識的に頭で捉えた現実に沿って計画を立て解決に向かおうとします。
しかし無意識はもっと多くの情報を受け取ることができ、目標達成のための方策もあなたの意識よりもずっとうまく見つけ出します。
その力を引き出すための条件が、「リラックスし、前向きな感情でいること」なのです。
「努力は無用である」ということの意味は、このようなものです。
でも、そんなもんを信用して、イイのだろーか。
そうじゃないのなら、別の手を試してみた方がイイんじゃねぇの?
気持ちが楽になる考え方

「ホッと気持ちが楽になる考え方を採用せよ」と言われても、ピンと来ない人もいるかもしれません。
ヒックス夫妻がどういうもののことを言っているのか、具体的に見てみることにしましょう。
先のセクションで引用した『実践 引き寄せの法則 感情に従って“幸せの川”を下ろう』ですが、33もの相談が書かれています。
例えば、お金がない、ダイエットできない、家族が干渉してくるといったものです。
そして、それぞれに対して「どんな風に考えたらよいのか」の回答が述べられています。
これらのうちから、ある程度汎用性のある言葉を引用してみたいと思います。
つまり「ホッと気持ちが楽になる考え方」の実例は、下記のようなものです。
「今までこうやってきたのだから、今、特に急ぐ必要はない」P120
「わたしたちはどちらも自分の人生を生きていく」P127
「お互いの調子が合えば、本当にすべてはうまくいく」P135
「ほかの人たちがわたしをどう思っているか、正確なところはわからない」P140
「これもいずれは過去になる」P147
「大きく見れば、わたしたちはとても恵まれている」P149
「別に何が悪かったわけでもないかもしれない」P157
「わたしにはほかに考えることがたくさんある」P158
「誰にでもいい日もあれば嫌な日もある」P175
「人生経験はすべて、自分の考え方や願望を拡大成長させてくれる」P190
『実践 引き寄せの法則 感情に従って“幸せの川”を下ろう』エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス、吉田 利子訳(SBクリエイティブ)2008
イメージは湧いたでしょうか。
ニュアンスとしては「自分が捉えられている考えから少し離れられるような考えを、試しに採用してみる」という感じのことです。
人が苦しんでいるときには、「そうであるにちがいない」とか「こうあるべきだ」といった類いの考えに縛られていることが多いからです。
ただし、「ここに書かれたような考えのどれかを、ぜひ採用すべきである」という話ではありませんので、その点は注意してください。
引用したどれかを、「正しいことだから、そう考えるべきだ」と無理に自分に押し付けるようではいけないということです。
自分の感情が開放されるということが正解であって、理屈のうえでの正しさは問題ではありません。
「自分が少しでも楽になれるような考えを、自分のために探してやる」というイメージで行ってください。
引用した言葉はどれも、あくまで例でしかありません。
自分の心がホッとできるのでなければどれも、少なくともいまの自分にはマッチしていないということになります。
その場合には、どういう考えであれば、自分がホッとできるのかを探してみてください。
大切なのは自分の感情に注意を払い、自分自身をケアしてやることです。
そのことを忘れて頭だけで進もうとすると、自分を押さえつけ自らパワーダウンさせるような意味のない結果になってしまうのです。
そのくらいヒトってぇのは、「アタマで考えた正しさ」に毒されているんヨ。
眼目は「ホッとできる」って方で、「正しさ」なんかじゃあない。
自分から力を引き出す方法

「オールを手放せ」というのは、つまり「流れに身を任せよ」という教えです。
そして、それは「自分にはすでに十分な力があることを信じなさい」ということを意味しています。
逆に言うなら、「自分の能力への疑いが、努力の重要性や必要性を意識させている」と考えられるわけです。
「努力が必要」とすることはすなわち、「自分を奮い立たせ、身を削らなければ、目標にはたどり着けない」と考えることです。
ですから、そこには「自分の疑い」があるのだと言えます。
多くの人が、自分自身に対する信頼を失っています。
そしてじつはそれこそが、自分の力を失わせる原因であるわけです。
誰かから価値あるものを引き出そうとするとき、どうしたらよいか知っているでしょうか。
それは例えば、「子供を素晴らしい人間に育てる方法とは、どういうものか」ということです。
その答えは、とても簡単です。
つまり「相手を信頼し、見返りを求めることなしに、その素晴らしさを期待する」ということです。
要するに「よい子だと信じて育てれば、いくらか迷うことはあったにせよ、ついにはそうなっていく」ということです。
もっと直接的に言うなら、「愛情をもって迎え、育てる」ということです。
おそらく多くの人は、自分がそうされたなら、そこにある愛情に応えてしまう自分自身を知っているはずです。
見返りを求められない本物の愛情を注がれて、そのことを何とも思わない人間は極めて稀です。
これと同じことを、まずもって第一にやるべき相手がいます。
それは自分自身です。
つまり、自分自身に対して愛情を差し向けることこそが、自分から力を引き出すコツなのです。
そして、そのための具体的な方法が「ホッと気持ちが楽になる考え方を探す」ということです。
「流れに身を任せれば、自ずとパワーを発揮する存在」として、自分自身をイメージしてください。
その期待に、いつまでも応えないままでいる自分でないことは、自分自身が一番よく知っているではないか。
つまりは、そーゆーコトなのだヨ。
まとめ:「努力無用論」

記事のポイントを整理します。
「努力無用論」については、ポイントは次のようになります。
- 努力の重視には、現実の単純化、努力の自己目的化、困難の引き寄せ、マインドの誤りといった多くの問題が点ある。
- それによって多くの人が「努力の物語」に毒されている。
- 抜け出すためには、「オールを手放せ」という教えがカギとなる。
この記事では、努力の問題点について解説してきました。
また「オールを手放せ」という教えから、自分自身をケアすることの大切さについて説明を加えました。
しかし、「努力は要らない」「むしろ努力はマイナスである」ということには、あるいは納得できないかもしれません。
前提になっているイメージがおそらく、よろしくないのだろうと思われます。
そもそも自分を鞭打って何かに向かわせても、そこから得られるパワーは微々たるものです。
そしてほとんどの人は、その程度のパワーについての多い少ないを問題にしているのだと言えます。
少なくともかなりの数の人間が、自分を鞭打つ方へ傾きすぎているのです。
太陽と北風の喩えではありませんが、人間に何かを強いるというのは決して賢い方法とは言えません。
「努力なしには怠けてしまう」という思い込みは、自分自身への侮蔑に他なりません。
十分な休息が取れれば、いつまでもダラけてなどいないはずです。
そういう自分への不信が、自身を怠けさせる元凶であることを見抜いてください。
もう一つ、大事なポイントがあります。
それは、「努力が大事だ」とする多くの人は、ある大きな勘違いをしているということです。
あべこべの逆立ちした解釈がそこにはあります。
そして、その解釈の誤りこそが人生を難しくさせているのです。
なおかつ、人が怠けてしまいたくなることの原因は、じつはそこにあります。
この点については、補足として、以下のセクションで書いていきたいと思います。
このことが分からないと、いつまでも「努力不足の自分」という思いから自由にはなれません。
とても大切な考えであり、一種の「発想の転換」が必要です。
努力についての逆立ちした解釈

もう一度、「努力」について考えてみたいと思います。
多くの人が、「何事かを成し遂げるには努力が必要だ」と考えているようです。
例えば、いわゆる「偉人伝」を読むと、人類に貢献する仕事をした人たちについて、その苦闘が描かれています。
彼らは「困難に立ち向かい、あきらめることなく、たゆまぬ努力によって成功した」とされているわけです。
そして、こうした例から人々は「努力が大事だ」と考えたのだと思われます。
けれどもこれは、逆立ちした解釈です。
なぜなら、努力というのは原因ではなく結果だからです。
偉人たちは、なぜあきらめることなく成功を掴んだのでしょうか。
それは決して、「努力をしたから」ではありません。
彼らは、成し遂げたいその目標を、何が何でも実現させたかったのです。
そこには「実現させたい自分の目標には、大きな意義がある」という思いがあったのかもしれません。
あるいは単純に「実現の前に立ちはだかる問題は、どうすれば解決されるのか知りたい」と感じていた場合もあるでしょう。
もしかすると「現実化すれば、巨万の富が得られる」と考えていた可能性もあります。
いずれにしても確かなのは、まずもって「とにかく実現させたい」という意欲があったということです。
そしてその結果として、傍から見れば「努力」と見えるような奮闘が生まれたのです。
言ってみりゃアホみたいな話だが、みんな逆立ちしてんのヨ。
努力ではなく熱中

コントラストを際立たせるために、言葉を換えて説明してみましょう。
先のセクションで偉人たちの話をしました。
多くの人が、彼らの奮闘を「努力の物語」として見ようとします。
けれども偉人たちが仕事に打ち込んでいたとき、そこにあったのは「努力」ではなく「熱中」です。
自分を強いて何かをやらせることが「努力」です。
自分の興味に従って自然と能力が発揮されるのが「熱中」です。
もちろん、何をもって「努力」と呼ぶかについては、言葉の定義の問題だとも言えます。
とは言え、ここで説明したことの意味が分からないということは、ないだろうと思います。
では、どうすれば「努力」ではなく「熱中」を生み出すことができるのでしょうか。
そのとき大切なのは、「頭で考えた目標に自分を無理に向かわせること」ではありません。
そうではなく、「自分の力が自然と発揮されるものに、自分を向かわせること」です。
ここでは、大きな発想の転換が必要です。
我々は、子供の頃から与えられた課題をこなすことをよしとされてきました。
そのため多くの人が、「やらなければならないことに、苦労しても負けずに取り組むことが素晴らしい」とする「努力の物語」に毒されています。
しかし、大切なのは、何事にもあきらめない心ではありません。
心があきらめられないような、自分にとってのそんな対象に身を投じることです。
だからつまり、まずはそれを探し出すことです。
なぜかと言えば、それなしには分かったような分からないような平凡な結果しか残せないからです。
ここに至って、探すべきものが見つかったことになります。
残された問題は、どうやってそれを見つけ出すかということです。
努力じゃなくて熱中、ねぇ。
言うなればそれが、才能の発揮ってヤツだな。
熱中の探し方(その1)

問題は、「自分を熱中させてくれるものはどこにあるか」ということになりました。
つまり問われているのは、「どんなものであれば、あなたは熱中できますか」というものです。
この問いに対して返ってくる答えの多くは、おおよそ二種類になります。
典型例が二つある、ということです。
一つめは「テレビや映画、音楽を鑑賞することなら、熱中できる」というものです。
けれども残念ながら、これでは満たすべき条件が足りていません。
その条件とは「ただ受け取るだけではいけない」ということです。
例えばテレビを見るというのは、単に与えられた情報を受け取り続けることでしかありません。
そしてただ受け取り続けていると必ず、解決できないフラストレーションを自分の中に溜める結果に終わってしまうのです。
人間は、ただ受け取り続けることで満足できるようにはできていません。
すべての生き物は、身の回りの環境に働きかけながら命をつないできました。
人間も例外ではなく、ただ受け取ることでは満足できないように作られているわけです。
つまり受け取るだけでなく、何かを生み出す必要があります。
それは、世間的にはどんなにつまらないことでも構いません。
自分から何らかのアウトプットをするようなことの中から、熱中を探してみてください。
自分が熱中できるものであれば、それ以外の条件はありません。
そんな感じのコトでも、ええんか?
自分が熱中できるコトならネ。
熱中の探し方(その2)

「何なら熱中できるか」に対する典型的な答えの二つめについて、説明しましょう。
それは、「熱中できるものなどない」というものです。
実際、多くの人が「自分の意識を長くつなぎとめてくれるものは何なのか」が分からなくなっています。
しかし、そんな風に思えてしまうことの原因ははっきりしています。
それはつまり、「意識が無意識を黙らせることが常態化しているから」ということです。
頭で考える正しさや損得によって、感情やひらめきが押し殺されることが続くと、無意識は次第に沈黙し始めます。
初めから、「こっちかもしれない」「そっちに行きたい」ということ自体を言わなくなってしまうわけです。
喩えてみればそれは、小さな子どもが、やりたいことをことごとく否定されたような状態です。
じつはこれに対しては、すでに対処法が示されています。
つまり、それこそが「オールを手放せ」という教えなのです。
「オールを手放せ」というのは、頭で考えることをやめろということで、つまり意識を黙らせるということです。
そしてだから、無意識が声を出す隙間を作るということなのです。
「ホッと気持ちが楽になる」というのは、無意識という子供が息を吹き返すということです。
このようにして「自分が何を感じて、何を望んでいるか」を無意識に言わせるようにすることが、何より大切です。
なぜなら、それが自分を熱中させるものを探すための道だからです。
やっと、話がつながったナ。
自分では決められない

「熱中」については、重要なポイントがあります。
それは、「何に熱中するかは、自分では決められない」ということです。
「自分では決められない」というのは、頭で意識的に決めることはできないということです。
「今日はこれに熱中しよう」とどんなに決心や宣言をしたところで、熱中できないものには当然ながらできません。
じつは「努力」というのは、この不可能なことを目指すものです。
意図して「熱中」を引き出そうとするのが、「努力」という名の虚しいお題目であるわけです。
何に熱中するかは、自分では決められません。
それは、何を好きになったり嫌いになったりするかはただ自分の心が勝手に感じるだけで、自分では決められないのと同じ話です。
何であれば意識が途切れず気が散らずに向かうことができるか、それを頭で決めることはできないのです。
言ってみれば、あなたが何に熱中するかは、あらかじめ決まっているわけです。
それを、正しいとか間違っていると言うことには意味はありません。
地球が太陽の周りを回っていることに文句を言っても無駄なのと、同じ話です。
先のセクションで書いたとおり、自分の中に子供がいると思ってください。
その子の意識が向くものが、自分が熱中できるものです。
そして、そこからしか本当の喜びは得られません。
なぜかと言えば人間が求めているのは単なる幸運などではなく、自分の意図と試したその結果を受取ることだからです。
逆に実現させても肩透かしを食らいたいのなら、オールを握りしめて上流へと懸命に漕ぎ続けることです。
自分の頭の中で社会的な価値に従って、善悪と損得、見栄や世間体のものさしで測るのがよいでしょう。
そうすれば、結果としての失望は約束されたようなものです。
自分で「こんな風に進もう!」と考えてもムダだっつーコトけ?
流れに乗り給へよ。
あきらめることができないもの

全体をまとめてみましょう。
この記事で書いてきたことは、おおよそ次のような話です。
つまり、「オールを手放し熱中できるものを探して、それに打ち込むことで最大限の能力を発揮せよ」ということです。
読んだ人はもしかすると、こんな感想を持つかも知れません。
「そんなことを言っても、生きていくためにやらなければいけないことがある」と。
もちろん、それは理解できる話です。
また、いますぐすべてを投げ出して「熱中」だけに向けて生きるような道も、あまりオススメはしません。
過激な行動はおおよその場合、嫌悪感を持っている現状への逃避から起こるものだからです。
そして、そういうマイナスの感情を元にした行動は、よりよくない状態を引き寄せてしまうものからです。
ですから、いまの生活をある程度キープすることも大切でしょう。
そうしながらも、次第に「熱中」が生活に閉める範囲を押し広げていくような方法を、お勧めしておきたいと思います。
もしかすると、「とは言っても、どうなるかも分からない熱中などに時間や労力を割くことはできない」という意見もあるかもしれません。
それでも自分の心に従って進むことをお勧めするのは、すでに書いたとおり本当の喜びはそこにしかないからです。
そして、自分の心が求めるものに応えることを、完全にあきらめられる人間はいないからです。
例えば、世の中には、自分のしたいことをして生計を立てている人がいます。
しかし多くの人はそうはできず、彼らを「特別な才能のあるごく一部の人」として捉えようとするわけです。
しかしどんなに言い訳を弄しても、望み自体を消すことはできません。
つまり誰もがおそらく、「自分もそうやって生きていきたい」という望みを捨てることはできないわけです。
人間は自分の望みの奴隷であり、かつまた主人でもあります。
自分の心のままに生きることを、完全にあきらめられる人間は存在しません。
つまり、それを少しでも叶える方へ進む以外に、本当の意味で生きる道はないのです。
「オールを手放せ」というのは、その道を進むための大事なコンパスなのです。
好き勝手にイキたいよねぇ、実際ねぇ。
