苦しみの方程式
クリスティーン・ネフという人の書いた『セルフ・コンパッション』という本を読んでいる。
そこに、少し面白いコトが書いてあったので、引用しておく。
次の方程式だ。
苦しみ=苦痛×抵抗
要するに、「苦痛を感じたとき、それに抵抗すると、余計に苦しむことになる」という話である。
すべてを関連付けようとは思わないが、これなどもまさに「引き寄せの法則」だ。
と思う。
抵抗というのは、仏教的に「執着」と言ってもイイだろう。
現実が望むとおりでないコトにこだわると、その分、苦しさは増す。
それどころか、当サイトでの解釈では、もっと良くないコトも起こる。
それはつまり、「苦痛に意識を向けすぎると、同様の苦痛を敏感にキャッチするセンサーが脳内に作られてしまう」というコトだ。
結局のところ、ちょっとした兆候が現れるだけで何度もその苦痛を見つけ、いつも抵抗して苦しむコトになる。
これは言ってみれば、ちょっとした「地獄」だ。
けれども、「執着を完全に捨てるコトは、人間の業ではない」とも言える。
もし、執着をすべて捨ててしまったなら、「それはもう人ではなく、仏だ」ということになるだろう。
とは言えやはり、多くの場合において人は、過剰な執着を抱えて、余計な苦しみを自ら育てている。
また、このコトは、アイデンティティの問題とも絡んでいる。
例えば、不正だと思われるコトを目の当たりにしたとしよう。
そんなとき、それに対して敢然と「ノー!」と主張するのが、「まさに私である」と感じる人がいるコトだろう。
「不正に対して黙ってなどいない」という自意識が、アイデンティティの一部を形作っている、というワケだ。
確かに、「自分は何者であるか」という意識は、とても重要だ。
それが失われた人間は、一種の狂人だ。
けれども、「まさにこれこそが私である」という思いが強すぎると、それ自体に首を締められる事態に陥る。
そんなときには、自分の首を締めている自分をイメージして、「果たして本当に、それが望む状態なのか」と問うコトも必要になってくる。
身も蓋もなく言うとすれば、「ヤリすぎを避けよ」というコトで、「中庸」という話になるだろうか。
人間は、喜びを求めて生きている。
その一部には、アイデンティティを確かなものにし、心を安定させるコトも含まれているだろう。
しかし、そのコトにとらわれてしまうと、また別の苦しみが生み出される。
というような話だ。
ただし、「とらわれすぎるのは良くない」などと言ってみても、そんなモノは下らない話だ。
なぜなら、とらわれが必要以上だから、「とらわれすぎ」と言うのだから。
つまり、あらゆる「○○すぎ」は、よろしくないのが当たり前だ、というコトだ。
では、どうすればイイのか。
もうちょっと、マジメに考える必要がある。
そのあたりの話については、コンドーさんとぺんたかに、語らせることにしよう。
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