研究

成功と宗教【信じるのではなく理屈で解き明かす宗教。そして成功の秘密】

ぺんたか
なんや、宗教か?
宗教の話は聞かんぞ!

コンドーさん
まぁ、別にイイけど。
でも、宗教ってのはナ、何十億人もが同意しているモノなワケで、そこには大事な秘密があるんやで。

ぺんたか
そんなん知らん。
なんつーか、正直イッて、怖いんだよ。
そっち側のヒトってば、ワケワカランものを信じてるヒトって感じ。

コンドーさん
まぁ、たりめーだが、ここで何かを「信じろ」なんて話をする気はないヨ。
宗教ってのは、人間の心の中にあるイメージを、如実に表現したモノだ。
だから、「何をイイたいのか」「何をイッてるのか」をつかむと、人間のありようもまた見えてくるのだよ。
そこが狙いなのダ。

 

本記事の内容

  • 宗教の起源。
  • 人間の心が生み出した神。
  • 神を利用する方法。

 

 

今回は、参考情報のコラム記事です。

宗教と成功との関係を読み解きます。

ここでは、キリスト教について扱うこととします。

その理由は、「引き寄せの法則」自体が、キリスト教の一派から生まれたニューソートをもとにしているためです。

 

さて、圧倒的な成功者というのは、宗教掛かったことをよく言うものです。

特に、海外の場合は顕著です。

それは例えば、「正しいことをやれば、神が報いとして成功させてくれる」というような話です。

 

こういうものは、ただ「その人が神を信じているというだけの話」のようではあります。

しかし、そこには成功のカギがあるのです。

そしてそのカギは、宗教を信じなくても使えるものです。

きちんと読み解いて、役立てることにしましょう。

 

この記事を書いているコンドーさんは、「引き寄せの法則」研究歴10年以上。

関連書籍を100冊以上読み、いまでも思索と実践を続けています。

 

そんなわけで、今回は宗教の分析です。

「なぜ多くの人が宗教に頼るのか」「そこから成功のために使えるものは何か」を探ってみたいと思います。

もちろん、何かの宗教を勧めるような話では一切ありませんので、ご安心ください。

 

 

宗教はどうやって生まれたか

「宗教」という項目を辞書で引くと、「超越的存在や聖なるものに関係する営み」というようなことが書いてあります。

「超越的」「聖なる」というのは、ちょっとむずかしい表現ですね。

でも単純に言えば、「この世のものではないような」というくらいの意味でしょう。

 

そして、この世のものではないという考えには、「いま存在している世の中とは別の世界がある」という前提があるわけです。

それは多くの場合、「死後の世界」と呼ばれるものです。

現世利益を謳うものもたくさんありますが、それでも死は宗教と切り離すことができません。

 

死がなぜ超越的で聖なるものと関わるかと言えば、誰も死を知らないからです。

たまに「死後の世界を見てきた」と主張する人が現れることがあります。

でも、当然のことながらそれは、ただ死にそうになっただけの話です。

 

あるいは、一種の催眠状態、トランス状態に何かのきっかけで入ったのでしょう。

もちろん、それは「死んだ」ということでは、まったくありません。

臨死体験は、生きている中で起こったことであり、死後とは何の関係もないということです。

 

当たり前の話ですが、生きている人間は誰も、自分の死を知りません。

そして、知らないものを恐れるのは、人間の性です。

その恐れに解決を与えようとするのが、宗教の役目だと言えるでしょう。

 

さて宗教は、いつ、どうやって生まれたのでしょうか。

それは、タイムマシンでもなければ、確認のしようがありません。

とは言え、夢と深い関わりがあるだろうとは言われています。

 

夢には、すでに死んでしまった人が登場することがあります。

死者が登場する夢を見た人間が、死後の世界が存在すると思うのは不思議な話ではありません。

夢を、死後の世界を覗き見る窓のようなものだと考えたわけです。

 

すべての死者が死後の世界にいるとすれば、その中には偉人と呼ばれた人もいるはずです。

未開の部族であれば、「亡くなった長老様が、あの世におられる」といった具合です。

そして、自分が知らないような、圧倒的な存在もいるだろうと考えるようになるのも、自然なことでしょう。

ついには、あらゆる死者の中でもっとも賢く、チカラを持つ存在が想定され、敬われることになりました。

そんな「すべての死者の長」とも言える存在が、神です。

 

神は夢やトランス状態を通して、人間たちに教えを説いたり、祝福や罰を与えたりすると考えられました。

そして問題が起こるなどして迷いの中にいるようなときには、人々は神を頼るようになりました。

どうすればいいのか教えてもらったり、直接問題を消し去ってもらえるように、祈り、儀式をしたというわけです。

こういうものがつまり、宗教が生まれたおおよその流れでしょう。

 

ぺんたか
夢に出てきたから、死んだ人もどっかで生きてんだろうと思った、みたいな話?

コンドーさん
んだ。
で、そういうヤツら全部の中で、一番すっごいヤツが、神ってワケだ。

 

 

神がいる場所

前のセクションのように神を捉えると、それが「どこにいるか」が明らかになります。

非常に単純な話ですが、神がいる場所というのは、それぞれの人間の心の中です。

 

神というのは、それぞれの人間が持つ「かくあるべし」という考えが、外面化、具現化されたものと言えます。

つまりは、こういう話です。

「人というのは、こうあるべきだ」「世の中は、こうであってほしい」という思いは、それぞれの人が持っています。

そんな多くの人が持つ願いを背負わされたのが、イメージとしての神というわけです。

 

例えば、モーセの十戒と呼ばれるものがあります。

ユダヤ教の古い教えですが、「父母を敬え」「殺すな」「盗むな」というように、一般的なルールも多く含まれています。

それぞれの人間が「正しい」と考えていたルールを、神というイメージを介して表現したものと言えるでしょう。

 

このような神というのは、言ってみれば、スーパーエゴ(超自我)の化身です。

このサイトでは何度も説明してきましたが、スーパーエゴというのは、精神分析の祖であるフロイトが考え出した概念です。

 

フロイトは、人間の心を理解するためのモデルとして、心には三つの役割があると考えました。

スーパーエゴ(超自我)、エス(原我)、エゴ(自我)と呼ばれるものです。

 

スーパーエゴは、社会のルールなど、自分を規制する部分です。

一方、エスは、あらゆる欲望の源と言えます。

そして、エゴは意識的な心の働きで、スーパーエゴとエスの調停役です。

人間の心には、こういう三つの働きがあるとフロイトは考えたわけです。

 

実際の心の動きは、流れとしては、次のような具合になります。

まず、エス(原我)が「あれがしたい」という望みを持ちます。

すると、スーパーエゴ(超自我)が「それについては、こういうルールがある」と牽制します。

そして、両者の意見を聞いたエゴ(自我)が、実際にどうするかを決めることになるわけです。

 

例えば、エスが「たくさん食べたい」と望んだとしましょう。

スーパーエゴは「食べすぎると太るし、太ると病気になりやすくなって、見た目もよくなくなるぞ」と助言をしてきます。

最終的には、エゴが、「さて、食べようかどうしようか」という決定を下すことになるわけです。

 

エスは、欲求、欲動、欲望、願望、衝動、直感、意欲、憧憬などが生まれるところです。

エゴは、意識、分別、判断、論理、思考、評価、決定などの担い手です。

そして、スーパーエゴが表しているのは、掟、ルール、規範、倫理、美学、道徳というようなものです。

 

すでに書いたように、少なくとも初めの段階では、神というのは、スーパーエゴの化身だったと言えます。

「殺すなかれ」「盗むなかれ」というのは、明らかにスーパーエゴから発せられた命令です。

ただし、このように「掟としての神」というのは、次第に古くなってしまいました。

 

モーセの生きていた時代というのは、紀元前の十数世紀頃だそうです。

つまり、いまから考えると、三千数百年前です。

そんな遠い昔においては、まだ社会が未熟で、法律も十分には整備されていなかったことでしょう。

ですから、スーパーエゴの化身である「掟としての神」を想定する必要があったわけです。

法律によらなくても、「神に背いた」として人々が裁かれていた、というような話です。

 

そこから千年以上の時が流れた頃、つまりいまから二千年ほど前に、ある男が登場しました。

そして、その男は「スーパーエゴを神とするもう時代は終わった」ということを、人々に告げたのです。

その男というのは、イエスのことです。

直接そう言ったわけではありませんが、イエスは「新たな神は、エスの化身であるべきだ」としました。

これは人間の歴史にとって、非常に大きな転換点だと言えます。

 

ぺんたか
ホーリツがなかったり、ゆるかったりした頃に、「悪いことをすると天罰がクダるぞよ?」って感じで、人をしばってたってコトか。

コンドーさん
せやで。
でも、そんな時代も終わりを告げたのであるよ。
イエスの登場によって、な。

 

 

神の居場所を変えた男

イエスがしたこと、しゃべったことを記したものは、福音書と呼ばれています。

福音というのは、良い知らせのことです。

「皆がこうすれば救われる」とイエスが教えた内容が書かれた書物だから、福音書というわけです。

 

福音書には、イエスの論敵として「律法学者」と呼ばれる人たちが出てきます。

律法というのは、ユダヤ教の神が人々に与えた法のことです。

つまり、旧約聖書に書かれたたくさんの決まりごとです。

 

そこには、近親相姦や同性愛の禁止、食事についての決まりなども含まれてます。

そうした様々なことについて、どうするのが正しいのかを教えるのが、律法学者であったわけです。

彼らは、旧約聖書に書かれた内容を引用しながら、「正しいこと」を人々に教えました。

 

しかし、イエスは違っていました。

彼は、言ってみれば「自分の言葉」で、教えを説いたのです。

そのことは、マルコという使徒が書いた福音書に、きちんと書かれています。

 

人々その教えに非常に驚いた律法学者ようではなく権威ある者としてお教えになったからある。マルコによる福音書1:22

 

律法学者たちは、過去にどう言われていたかを問題にしました。

これはもとを正せば、スーパーエゴの声です。

一方、イエスは、愛や赦しについて語り、教えを説きました。

こちらは明らかに、エスの声と言うべきものです。

「掟としての神」から「愛としての神」に捉え直しがなされたわけです。

こうして神の居場所は、スーパーエゴからエスへと移ったのです。

 

ちなみに、先ほど赦しと書きましたが、この言葉は許しと同じ読みではありますが、意味は違っています。

何かを許可するのが「許し」で、起こってしまったことを受け入れるのが「赦し」です。

例えば、何か悪いことするというような場合で、考えてみましょう。

「悪いことをしても問題ではない、してもよい」とするのが「許し」です。

一方、「悪いことをしてしまったけれども、見捨てたりはしない」というのが「赦し」です。

英語だと、許すはpermitで、赦すはforgiveとなります。

宗教的には、「神が罪を許すことはないが、赦すことはある」となるでしょう。

 

さて、話を戻します。

イエスは、当時の世の中では虐げられていた人々にも救いの手を差し伸べています。

例えば、目が見えない者、歩けない者、皮膚病に冒された者などは、当時は「本人が犯した罪のせいだ」と考えられていました。

要するに、「バチが当たった」というような話です。

ですから、現代的な常識から見れば、偏見によって不当な差別を受けていたということになります。

 

そういう人たちにも、近づき、関わっていったのがイエスです。

そこでは、目が見えなかったり、歩けなかったりした者を治すという奇蹟を起こしたと言われています。

しかしここでは、そういう超常現象のようなものについては問題にしません。

 

なぜなら超能力のようなものについて語れば、現実的な解釈をしていこうという当サイトの趣旨と合わないからです。

人知を超えた存在としてのイエスというキリストが現れて数々の奇蹟を起こしたと見るなら、どうなるでしょうか。

ただの不思議な物語になってしまい、学ぶべきことは失われてしまいます。

 

逆に、大工の息子が神の子であるのなら、どの人間もそうでありうると考えることの方にこそ、大きな意義があります。

ここで言う神の子というのは、全知全能の存在の子ということではありません。

多くの人間を圧倒するような智慧を悟り、それが何千年も言い伝えられるような存在のことです。

 

こうした考えから言うと、イエスが差別されていた人たちの中に入っていったこと自体に、大きな意味があったと考えられます。

イエスのような人間が傍らに来て、深く交わることで、被差別者たちは「自分の体の異常は、罪のせいではない」という感覚を得たことでしょう。

その理屈ではない深い洞察、つまりは悟りが、その症状を変えたということは、十分に考えられることです。

 

とは言え、先ほど書いた理由から、奇蹟のような話には、これ以上は踏み込みません。

いずれにせよイエスの中には、「虐げられている者たちにこそ、救いが必要なのではないか」という直感があったものと思われます。

つまりは、彼の心の中にもやはりエスの声があり、それを何より重視したのだろう、ということです。

 

ぺんたか
ふぅむ。
「何を神とするか」が変わったのけ?

コンドーさん
まぁ、スーパーエゴやエスが、そのまま神そのものであるとは言わんワ。
でも、それらは神ってのが何に基づくモノであるかってコトであり、まさにソレが転換したように思えるのじゃよ。

 

 

放蕩息子と精神分析

イエスが人々に教えるために言った、有名な喩えがあります。

「放蕩息子の喩え話」と呼ばれるもので、おおよそは次のような内容のものです。

 

二人兄弟の弟が、父親に財産の分け前が欲しいと言い、受け取るとすぐに旅に出て、放蕩の限りを尽くし使い果たしてしまった。

困り果てた末、改心して家に戻ってきて父に侘びたが、父は喜んで受け入れ、宴を開き歓待した。

兄はそれが不服で文句を言ったが、父は一度死んだ者が生き返ったのだから、喜ぶのは当然だと兄を宥めた。

 

さて、この喩え話を、すでに説明した精神分析の用語を使って読み解くことにしましょう。

登場人物である三人の、それぞれの役目はこうなっています。

弟は明らかに、したい放題のエス(原我)ですね。

かくあるべしと告げる兄は、スーパーエゴ(超自我)です。

そして、それぞれの言い分を聞いて判断を下す父親は、エゴ(自我)ということになります。

 

話全体としてのテーマは、「エスを受け入れること」だと言えるでしょう。

「スーパーエゴが言ってくるような、“正しさ”に従い、それを守ること」ではない、ということです。

つまり、大切なのはスーパーエゴの領分である「何をしたか」ではない、ということが主張されているわけです。

より重要なのは、エスの領分である「何を感じているか」だという教えです。

 

もっと有名な、「迷える子羊の喩え」についても、油断するとフラフラと勝手に歩きだしてしまうエスのメタファーと考えられます。

羊が帰ってきたときの喜びが語られているのは、エゴとしてはエスのやってしまったことを受け入れるしかないという様が描かれていると捉えられます。

 

実際、生きるということは、その都度、エスの声に耳を傾け、その望みを実現に向けてできうるかぎり試してみることだと言えるでしょう。

スーパーエゴの声を聞いて、そのまま従う人生は、無難ではあっても何の喜びもありません。

つまり、そこには「救い」がないわけです。

そして、その失われていた救いを与えたのが、救世主と呼ばれるイエスであったということになります。

 

現実において、世間的な勝利を獲得するのは、スーパーエゴたる兄であるかもしれません。

実際、父親は不平を言う兄に対し、こう諭しています。

 

子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。マルコによる福音書15:31

 

それでも父としての大きな喜びは、やはりエスである弟とともにあるわけです。

そもそもは自分の中に望みや疑問が生じることも、言ってみれば「神の業」というようにも言えます。

ですから、それを無視して生きることは、それ自体が罪であると考えることもできるのかもしれません。

 

ぺんたか
カネ遣いが荒いお坊っちゃんとは、そらまた困ったもんデスなぁ。

コンドーさん
まぁでも、ある意味、しょーがないんだヨ。
そーシタかったんだから、な。
シタいコトをして、それが自分にとって何なのかを知り、そこから学ぶのが、イキるってコトなんだから、な

 

 

宗教のパラドックス

神と言えば、あらゆるものの上に存在する絶対者として、イメージされているものです。

しかし、人がどんな神を信じているにしても、その神の上には、ある存在が必ずいます。

それは、信じている人自身です。

 

実際、「パウロの回心」がそのことを示しています。

パウロというのは、初期キリスト教の使徒であり、新約聖書の著者の一人です。

彼は初めはユダヤ教の信者で、キリスト教を迫害する側の人間であり、先のセクションで出てきた「律法学者」でした。

しかしあるとき、すでに亡くなっていたイエスの「なぜキリスト教を迫害するのか」との声を聞き、目が見えなくなってしまいました。

 

その後、キリスト教徒が神のお告げによってパウロのために祈ると、また目が見えるようになりました。

ちなみに、このときパウロの目から鱗のようなものが落ちたと言われています。

つまりこれが、「目から鱗」という言葉の元になった出来事です。

パウロはこのような不思議な経験をした後、回心し、キリスト教徒になったのです。

 

話を戻して、神より上にある存在について説明していきます。

パウロが回心したということは、どの神を信じるかはパウロが決めたということです。

そして同じことは、万人について言えるわけです。

 

人間が神を選ぶときの根拠となるものは、宗教的な直感です。

直感と書いたのは、つまり、宗教が理屈では解決できない問題を主に扱うからです。

なかでも、死をどう捉え、扱うのかについては、最重要のテーマと言えます。

しかし、そもそも誰も死後を知らないのですから、理屈では説明などできません。

ですから、死について意見を決めるのには直感によるしかありえないのです。

 

「死ぬと天国か地獄が待っている」というのは、実際、ただの物語です。

しかし、「死ねばそれですべておしまいだ」と考えるのもまた、物語にすぎません。

結論を出そうとしているのは生きている人間ですが、生きている間は、その正しさを証明する術がないからです。

 

さて、宗教に帰依する人たちは、よく自分が小さな存在であることを強調するものです。

「私のような者でも、神は愛してくださる」というのは、典型的な信者の告白と言えます。

しかし、そうした殊勝な心掛けの者でも、初めにどの神を頼むかを選んだのは、紛れもなく本人自身です。

 

彼は、自らをちっぽけな存在と捉え、全能の神を頼みとしています。

しかし同時に、その神を選ぶ権利は自分が持っていると前提しているわけです。

ここに、「宗教のパラドックス」があります。

自分自身を酷い弱者とも、圧倒的な強者とも捉えているということです。

 

その矛盾の裏には、無力と告白しながらも自らを頼むということ、つまり自分自身への信頼が隠されています。

「神を信じる」と言いながらも、その前提には「自分を信じる」ということがある、という話です。

単純に言えば、「この神を信じると決めた自分を信じる」ということです。

そして、この点こそが「成功につながる力を解放するためのカギ」が隠されている場所でもあるのです。

 

ぺんたか
ユダヤ教の神を捨てて、キリスト教の神を選んだんなら、たしかに神よりも自分が上にいるというようにも考えられるね。
まるで、二人から好みの方を選ぶ、モテ男みたいじゃないか。
それって、まるでボクみたいじゃないデスか、あはー。

コンドーさん
あはー、じゃねぇよ。
まぁ、この話については、イスラム教も含めて全部同じ神じゃん?的な話もあるけど・・・
そーゆーヘリクツは、とりあえず置いておこう。

 

 

神とは何か

神を信じる者は、どの神が正しいかを自分で選んだ。

だから、その意味では神よりも上の存在として自らを捉えている。

一つ前のセクションでは、そういう意味合いの話をしました。

 

いずれにしても、人間というのは、自分を信じることから逃げることができません。

どんな考えでも、受け入れるか拒否するかを判断するのは、必ず自分だからです。

宗教の教義でも世間一般の常識でも親しい人からのアドバイスでも、その点は変わりません。

 

さて、そもそも「神」というのは、何を表しているのでしょうか。

その内容は、古い昔はスーパーエゴの言い分であり、また時代が経ってエスの言い分に変わったという説明をしました。

けれども、それは何をもとにどうして変わっていき、どんなことを表現しているのでしょうか。

その点を説明したいと思います。

 

人間にとっての「神」というのは、「それが正解だという直感を裏づけ、与えてくれるもの」です。

ちょっと分かりづらいですね。

これはつまり、「自分が正しいと感じることを、絶対的な力で現実のものにしてくれると期待できるような存在」という感じの意味合いです。

 

例えば今回の記事で書いたように、イエス以前には、人間たちにルールを課すような「掟としての神」が想定されていました。

それはつまり、まだまだ盗みを働いたり人を殺したりするような者を裁く体制が弱かったということでしょう。

また、悪人は神の手によって罰せられるべきだという思いが、人々にとっての直感的な正解だったということでもあります。

 

もちろん、現代においても窃盗や殺人は罰せられる対象です。

しかし、その役目は宗教ではなく、司法の手に委ねられています。

実際、犯罪の被害者になったときに、その直接的な解決のために宗教の門を叩く人はほぼゼロでしょう。

 

もともとは人々を守り救うために、間違ったことを正すように様々な掟が作られたわけです。

けれども、それが次第に成文化され、実際の法律や慣習になっていくと、また別の弊害が出てきます。

つまり律法学者のように、その重箱の隅をつつき、様々な解釈を得意になって説明しだす者が出てくるということです。

彼らの一部は、自分たちの発言によって人々を縛り付けられるように感じ、権力意識に酔うようになります。

 

また、もともとの精神を忘れ、言葉の細かい定義や解釈にはまり込んで行くと、議論は無限にできることになります。

そして、そういうことを延々とやっているのが、象徴的な悪役としての「律法学者」なわけです。

古い日本の言葉で言うと、道学先生ということになります。

 

彼らの楽しみは、律法の解釈を得意になって説明することにあります。

しかし、大多数の人の望みはそんなことを拝聴するところにはありません。

掟によって弾かれ否定された自分をこそ、救い出してもらいたいと思うのが、当たり前の感情です。

そうした望みを掬い上げたのが、他ならぬイエスでした。

 

いずれにしてもそこには、多くの人が「そうであった欲しい」と願うものが、表現されているわけです。

初めは、多くの人が「盗むな、殺すなということを、絶対者が命令して欲しい」と望みました。

そして、「その掟を犯した者には、罰が下されるべきだ」と考えたのです。

 

時代が移り、法が整備されて人々の心にも定着するようになると、話は変わってきます。

今度は、「もっと感情的な面も解決してもらいたい」と望むようになりました。

それは例えば、「誰でもが愛され、重んじられていると感じられるようにして欲しい」というような話です。

 

結局のところ、人々の望むところに合わせて、神が変容したということになります。

つまり「神」とは、社会において人々が望むことを実現するよう、その願いを背負わされた絶対者のイメージである、ということになるでしょう。

神の子と言われるイエスだけなく、その父たる神もまた、十字架を背負わされていたわけです。

 

例えば、多くの人は「死んだらどうなるのか」「死とはどういうものなのか」という不安とともに生きています。

ですから天国というものを考え出し、「信者ならば、死ねばそこに行けるのだ」と、宗教は約束したわけです。

しかしまた多くの人々の望みは、「ただ自分が天国に行ければよい」とするのみではありません。

 

生きている間は何の罰も受けなかった悪人などを見て、「ふさわしい罰が与えられるべきだ」と望みもしたのです。

ですから、また宗教は「悪人は、死後裁きにあい、地獄に落ちる」という約束をしたわけです。

いつでも、まず人々の側に望みがあり、それを背負う形で神が約束をしたということです。

 

こう考えると明らかですが、地獄を生み出したのは、報復を望んだ人間たち自身であることになります。

逆に言うなら、「誰でもが天国に入るべきだと心から望む者は、自分が地獄に送られることをさほど恐れないだろう」ということです。

じつはこうしたマインドもまた、我々が利用すべきものであり、成功への道とつながっています。

 

ぺんたか
なんだよ。
おもーいモノを背負わされたのは、イエスだけじゃないんかよ。

コンドーさん
イエスが現れるずっと前から、神は人間のワガママという重い十字架を、背負わされていたのだナ。
人間とは、罪深いイキモノだ。
とは言え、オレはオレでやっぱし、あーもシテほしいし、こーもシテほしい、とつねに思ってるけどナ。

 

 

望みが生まれる場所

「掟としての神」から、「愛としての神」へという変化があったと説明しました。

しかし、これによって過去のすべての掟が破棄されたわけでは、もちろんありません。

多くの掟が依然として重要なままなのは、同じことです。

 

つまり、法律があったにしても、やはり神は「盗むべからず」「殺すべからず」としていて欲しいと望む人が多い、という話です。

意義が薄まったとは言え、法律があろうとなかろうと、絶対者が導くべき方向はある程度決まっています。

それは取りも直さず、人々がこうあって欲しいと願うことです。

 

では、そもそも人間が何かを望むということは、どこから生まれるのでしょうか。

盗んだり、殺したりしてはいけないのは、なぜでしょうか。

迷惑だから、怖いから、というような意見は、ただ問いをずらしただけです。

なぜ迷惑だといけないのか、なぜ怖いのはダメなのかという疑問が、生まれるだけのことだからです。

 

こういう問いに対してカントは、「もしそれをすべての人がやったらどうなるか」で考えるべきだとしました。

つまり、すべての人が盗みを働くようになったらどうなるのか。

あるいは、すべての者が自分の都合のために人を殺すようになったらどうなるのか。

それを考えるべきだ、としたわけです。

当然のことながら、社会は混乱して、その存続は難しくなります。

 

このように考えると、社会を存続させることが求められているということが分かります。

では、なぜ社会の存続が望まれているのか。

それはつまり、個々人が生き延びるときに、社会を利用してその利点を活かしたいと考えているからでしょう。

結局、当然の話ですが、それぞれの人間は生きようとしている、ということになるわけです。

 

人間の望むところの大前提は、自分が生き延びることであり、その生命をつないでいくことです。

それが前提であるから、自分が考える正しさのために毒杯をあおるソクラテスに、人々は驚かされたわけです。

また、もはやそれに執着することのない人は、目覚めた人、「仏陀」と呼ばれたわけです。

逆に言えば圧倒的な多数が、いまもそしてこれからも、生に恋々として生き続けていくのだ、ということです。

 

こうした命をつないでいこうとする傾向は、ただ人間の考えの中にだけあるものではありません。

例えば、セックスと快楽が結びついているのも、幼い子供をかわいいと感じるのも、そうした傾向性の現れです。

すべての人にとって、セックスが苦痛しかもたらさないとすれば、人類の存続は危ぶまれます。

逆に言うと、そういう類いの個体は子供を残せず、すでに滅びたということです。

 

幼い子供を慈しむ思いについても、話は同じです。

子供を欲しいとも思わず大事に育てたいとも感じない個体は、命をつなぐのが難しいことになります。

ですから逆に、つながれてきた命の結果として、子供が欲しいとか子供はかわいいと感じる人が多いことになっているわけです。

 

つまり言ってみれば、人間の欲望は、進化の賜物です。

男性が若くスタイルのよい女性を好むのは、これから子供をたくさん産める可能性が高く、いままさに妊娠していないことが直感的に分かるからです。

女性が経済力のある男性を好むのは、妊娠・出産・子育てという高い負荷が続く長い期間を、十分に支えてくれるという期待が持てるからです。

これらは有り体に言えば、ただの欲ですが、命をつないでいくための強かな戦略だとも言えます。

 

こういった「命をつなぐための戦略としての欲望」に照らして、神は作られました。

つまり神が表現しているのは、進化の結果として人間が持っている欲を、十全に果たしてくれる絶対者のイメージです。

実際、帰依した者たちは、様々な願いを並べ立て、それらを果たして欲しいと神に祈ります。

聖書の創世記には、神が自らをかたどって人間が造ったとされていますが、実際には逆です。

人間が自らの欲をかたどって、神を造ったのです。

 

ぺんたか
ってーコトは、ボクがいつも魚を丸呑みしたくなるのも、進化の結果デスか?

コンドーさん
まぁ、そーなるな。
つーか、くだらねぇコトを聞くんじゃねぇよ。

 

 

解決できない不安

一つ前のセクションでは、人間の欲は進化の結果によるものだという話をしました。

ただし人間の欲は、動物のそれと同じような単純なものではありません。

その点についても、解説したいと思います。

 

人間の欲が単純ではないという、その理由の方は単純で、大脳が肥大したからです。

そのように、他の動物に比べて大脳が圧倒的なまでに大きくなったこともまた、進化の賜物です。

結果として人間は、道具や言葉を駆使し、万物の霊長となりました。

ちなみに、万物の霊長というのは「あらゆるものの中で最も優れている」という意味です。

かなり、思い上がった表現ですね。

 

大脳の肥大がもたらした恩恵は大きいですが、同時に大きな問題もまた産み落とされました。

それは自意識であり、よりくわしく言うとすれば、自意識の不安です。

自意識、つまり自分自身を意識することによって、人間は自らに対する不安を覚えるようになったのです。

それは「自分は、いまの状態でよいのか」「こんな自分でいいのか」という不安です。

 

このような不安には、答えがありません。

その意味はつまり、「人間のあり方に、理屈の上での正解はない」ということです。

なぜ正解がないかと言えば、どんなに素晴らしい状態にあっても、それについての自意識がまた生じてしまうからです。

 

あらゆる成功を手にしても、いつでも「じゃあ、これでいいのか」という疑問は生まれ、そこから逃れることはできません。

その疑問は、まさしく自然と生じてしまうもので、消し去ることはできないわけです。

逆に、そんな意識こそが人間の能力にドライブを掛け、万物の霊長にまで引き上げたのだと言えます。

つまり、「能力と不安とは、表裏一体」だということです。

 

では自意識の不安には、どう立ち回ればよいのでしょうか。

そのことが分かっていないと、あらゆる成功を手にしても、また不安の中に投げ込まれてしまうことになります。

成功した人物が「こんなものか」「これだけか」とつぶやくのは、小説や映画などではお決まりのシーンです。

それがなぜお決まりのシーンになるかと言えば、多くの人が「もしかしてそうなのだろうか」と感じているからです。

つまり、「成功しても満足などできないのではないか」という不安を抱えているわけです。

 

成功のイメージが不安とセットになっていれば、その不安によって成功は阻まれます。

あるいは仮に成功したとしても、不安も同時に実現してしまいます。

それが法則です。

ですから大切なのは、先回りして自分の欲望をチェックすることです。

目先の結果だけに気を取られると、そのすぐ後で、余計な不安がつきまとうことになってしまうからです。

 

ここで、一番はじめにお話した話が、登場することになります。

それは、信心深い成功者が語る「正しいことをやれば、神が報いとして成功させてくれる」という話です。

信者でなければ受け入れがたい、いかにも宗教的な香りのするこの言葉は、何を意味するのでしょうか。

次から、くわしく説明していくことにしましょう。

 

ぺんたか
あー、ボクはいっつも思ってマスわぁ。
「ボクって、こんな感じでイーんだろうか」ってね。

コンドーさん
まぁ、霊長類ヒト科のイキモノですら思うんだから、鳥頭のオマエが思うのもムリはないわナ。

 

・・・と説明してきましたが、あまりに長くなってしまったため、恐縮ですが無料記事はここまでとさせて頂きます。

「どのようにすればよいのか」についての解説はこれからですが、そのヒントは、ここまでの記事にも散りばめてあります。

すでに理解されている方も多いと思いますし、そうでない方も何度も読んで頂ければ分ってくるかもしれません。

 

以下、有料会員の方のために、「この世の地獄を逃れるための現実的な方法」「多くの人が理解していないイエスの真意」「それを成功に役立てる方法」などについて解説したいと思います。

ここまで読んでいただき、大変、ありがとうございました。

 

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