研究

因果応報の秘密。カルマ(業)のオカルト抜きの解釈

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ぺんたか
カルマだぁ?
なんだよ、いきなり。

コンドーさん
だって、カルマってのも、一種の引き寄せじゃーん?
そうじゃーん?

 

仏教におけるカルマについての考えが、「引き寄せの法則」と関連していると考えられるので、その点について記しておきます。

カルマとは、業とも言われ、「自らの行いが宿命として自分に返ってくる」という考え方です。

「罰が当たる」「因果応報」「自業自得」というようなお馴染みの表現は、カルマによる原因と結果のつながりを示していると考えることができます。

しかし実際には、悪いことをすれば、そのままのことが必ず自分に帰ってくるかと言えば、そうとも限らないというのが本当のところです。

例えば、人を殺したからといって、捕まえられて罰せられることはあるかもしれませんが、必ずしも自分も殺されるとは限らないという話です。

もちろん、カルマというのは厳密なものではなく、単に「もののたとえ」と考えることもできます。

けれども、「引き寄せの法則」とあわせて考えると、これは人間の持っている認識のシステムについての話だと解釈できます。

この点について、順を追って説明していきましょう。

ぺんたか
認識システムだぁ?
なんだ、そりゃ!?
コンドーさん
まぁ、アレですよ。
「世の中をどう捉えるか」っていう、そのカラクリのコトよ。

 

 

意識したものが自分に返ってくる

「引き寄せの法則」は、人間がお互いに強く影響し合っていることから説明されるというのは、すでにミラーニューロンについての記事に書いた話です。

つまり、自分がイメージしたことは周囲の人間の脳にあるミラーニューロンを発火させ、同じ行動のシミュレーション(マネ)をそれぞれの心に生じさせて、結果として、同じような行動が促され、現実になる、ということです。

これが、「引き寄せの法則」のスピリチュアルでない解釈です。

以上のような話は、イメージしたものだけでなく、実際の行動の場合でも同様で、

  • 自分が行動を起こす。
  • 周囲の人間がそれを見る。
  • それぞれの脳内でのシミュレーションがなされる。
  • 同様の行動が促される。

という流れは変わりません。

このような流れはまさに、カルマについての説明そのものと言えるでしょう。

なぜなら、自分の行いが自分に返ってくるということを、まさに示しているからです。

またこれは、一種の催眠現象のようなものとも受け取ることもできます。

例えば、道で知らない人が自転車をフラフラを運転しているのを見たとき、「こっちに近づいてきたら危ないな」と思って、注意を向けてしまうことがあります。

すると、「相手もこちらのことを意識して、余計に近づいてきた」という経験は、誰もがしたことがあるのではないでしょうか。

これはなどは、「こっちに近づいて来るなよ」というイメージが、意図せず相手に伝わってしまったものと考えられます。

無意識には「来るな」という否定形は理解されず、ただ「こっちに来る」「近づく」ということだけが受け入れられますから、それが現実になったということです。

なお、無意識についてのより詳しい説明は、コチラをご覧ください。

さて、自分のイメージや行動が周囲に影響を与えてそれが返ってくるわけですから、当然のことながら、「自分の行いには気をつけなさい」という話になってきます。

次に、この点について考えてみましょう。

ぺんたか
「自分のやったことが自分に返ってくる」と。
オマエ、この話、スキだな。
コンドーさん
つーか、これが「引き寄せの法則」だからさぁ。

 

 

世の中をどういうものだと捉えるか

仏教では、殺さない、盗まないといった基本的なルールが「五戒」として定められ、守るべきルールとされています。

すでに説明したとおり、生き物を殺したり、ものを盗んだりすると、そのことは周囲の人間に対しても同じことをするのを促す結果になります。

つまり「五戒」を破る行為は、お互いに傷つけ合うような殺伐とした世界に、自分自身を投げ込むような結果につながるわけです。

同時に自分自身に対しても、そういう行動が普通に起こるようなこととして無意識に刷り込まれます。

つまり、殺しや盗みを「あって当然のこと」と考える「餓鬼」を、自分の脳の中に飼うことになってしまうわけです。

つまり、自分も殺されないだろうか、盗まれないだろうかという絶え間ない不安とともに生きざるを得なくなるということです。

そして、これこそが「地獄」と呼ばれるものであり、またそこに生じている作用が「カルマ」だと考えることができます。

結局のところ、イメージすることや行動することは、「自分が世界をどういうものだと捉えるか」というその見方、「世界観」を作ったり変えたりする結果になるという話です。

そして、だからこそ、「その点に注意を払え」というメッセージが重要になってくるわけです。

ヒックス夫妻版の「引き寄せの法則」では、何か行動するたびに、「節目ごとの意図確認」をすることが勧められています。

「節目ごとの意図確認」とは、「何かをするに当たって、それがどういうものであって欲しいのかを、その都度イメージすること」です。

例えば、誰かと会話をするときには「この会話が楽しく、親密さを深めるものであって欲しい」と考えるというようなことです。

また、どこかに出かけるときには「この行程が安全で、楽しいものであることを望む」と確認するというような話です。

これは、「世界がどんな風であって欲しいか」を、ことあるごとに宣言するということを意味しています。

「引き寄せの法則」は「願望を実現する方法」なわけですが、その大事なポイントとして「世界を認識するやり方を変える」という点があるのです。

ぺんたか
「自分が地獄にイクことになるから、ヤメとけ」って話ね。
コンドーさん
でも、その地獄ってのが、別にあの世じゃなくて、この世の話だってコトよ。

 

 

共通する「カルマの教え」

ヒックス夫妻版の「引き寄せの法則」では他にも、「許容し可能にする術」がマスターすべきものだとされています。

そして、その「許容し可能にする術」とは、次のようなものだと説明されています。

わたしはわたしであり、わたしはありのままの自分に喜びを感じて、楽しんでいる。あなたはあなたであり、たぶんわたしとは違うだろうが、それもそれでよろしい。『引き寄せの法則 エイブラハムとの対話』エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス、吉田 利子訳(SBクリエイティブ) P205

要するに、「許容し可能にする術」というのは、「人に対して咎め立てをしない」ということです。

なぜ、そういう心構えでいることが勧められているかと言えば、「人を咎めても構わない」という思いが、自分が世界を認識するその仕方にも、必ず影響してくるからです。

人への咎め立ては、周囲の人たちが自分を咎め立てしてくることを誘発します。

また、自分としても「人を咎めているのだから、自分も咎め立てされても当然だ」という認識にもつながります。

すると、「非難されるかもしれない」というイメージがあるため、自分の行動にもブレーキが掛かることになるわけです。

もちろん、そういう心の動きは自分が咎め立てをした相手にも起こるわけです。

つまり、人に文句を言うような精神的態度は自分にも周囲の人にも損でしかないことになります。

そのため、「許容し可能にする術」によって「人も自分もありのままでいることを許せ」と教えているわけです。

結局のところ、「許容し可能にする術」というのは、「他人が他人であることを許せば、自分が自分であることを許されているようなものとして、世の中を捉えられるようになる」とする「カルマの教え」と考えることができます。

つまり、「もし願望を実現することを目指すのなら、人や自分についての見方を変えなさい」という教えが示されているわけです。

そして、そのための方策として「節目ごとの意図確認」などのテクニックを使え、ということが教えられていることになります。

以上のように、仏教も「引き寄せの法則」も「世界をどう捉えるかが、自分が受け取るものや自分のあり方に強く影響している」ということを教えている点では、同じ話だと考えることができます。

ぺんたか
ヒトに文句を言うと、ペンギンも言われるかもしれないと、自分で思っちゃうってコトか。
で、ペンギンらしい自由なふるまいができなくなっちゃう、と。
コンドーさん
ファーストペンギンどころか、全員が氷の上で飢え死にデスよ。
やっほい。

 

 

仏教的に負のカルマを断つ方法

仏教が、世界をどう捉えるべきと教えているかについて、もう少し見てみることにしましょう。

仏陀が開発したとされる瞑想法で、ヴィパッサナー瞑想と呼ばれるものがあります。

その実践においては、「あらゆるものを、ただそのものとして受け取り、それにまつわる意味のつながりを断つようにする」とされています。

これは例えば、秋の夜に虫の鳴き声を聞いても、ただそのものとして感じるだけにして、「もの寂しい」といった感傷を持つことを避けるといったような話です。

また、家の中を歩いていて家族の誰かが置いたイスに脛をぶつけて痛かったとしても、ただ痛みを痛みとしてだけ受け取り、「誰がこんなところにイスを置いたのか」「忌々しい」などという思いにつなげることを避けるわけです。

なぜそうするかと言えば、そのつながりを認めてしまえば、イスを放置した子供に対して怒りをぶつけたり、自分の不注意を棚に上げたことに対して罪悪感を覚えたりするといったような、種々の煩悶に囚われることになるからです。

また、そのような余計な心の働きこそが、人間の感じる苦しみの多くを生み出している元凶であると捉えられているからです。

ぺんたか
アホのクマセンセーが説教してきても、「ああ、言ってるなぁ」と思って、聞き流せばイイのか?
コンドーさん
オマイ、ちょっとそこに正座しろ。

 

 

引き寄せ的に負のカルマを断つ方法

一方で、「引き寄せの法則」で同じケースを考えると、どうなるでしょうか。

例えば、次のようにして、「少しずつ自分が気分のよくなるような考え方を採用していく」ということをします。

「子供は、私を傷つけようとしてわざとここにイスを置いたわけではない。」

「子供は、いつもジャマな場所にイスを置くわけではない。」

「ちゃんと置く場所を考えるような分別も、すぐに身につけるようになるだろう。」

「大きな問題も起こさず、ほとんどのことはうまくやってくれている。」

つまり、たとえ少しずつでも、できる限り肯定的、積極的に解釈していくことで、自分の気持ちを無理なく上げていくという方法です。

ちなみに、この方法を具体的にどうやるかを様々な問題について解説しているのが、『実践 引き寄せの法則 感情に従って“幸せの川”を下ろう』ですので、興味のある方はご覧ください。

以上のことから、仏教では、できるだけ余計なことをせず、様々なことに煩わされずに過ごすということを目指し、「引き寄せの法則」ではなるべく肯定的に見ることでできる限り多くの喜びを味わおうとしていることが分かるものと思います。

そして、どちらが決定的に正しいと言えるようなではないというようにも思われます。

おそらく重要なのは、どちらの考え方についてより深く、自分自身が同意できるかという点でしょう。

それはつまり、「自分はどういう風に世界を捉えるか」であり、「どんな風に生きていきたいか」という問題であるわけです。

ぺんたか
「自分にしっくり来る方を選べ」ってコトかいな。
コンドーさん
つーか、選ぶしかないっつーか。
選ばなくても、そうするしかないっつーかネ。

 

 

答えはエスに委ねられている

仏教は、すべてのものがそのままであることを認め、あらゆる執着を手放した涅槃(ニルヴァーナ)の境地を求める立場です。

一方、「引き寄せの法則」はもっと俗な、現世的な利益を語っているように思われます。

仏教の立場からすれば、「そういう目先の利益を求める煩悩こそが、苦しみの根本的な原因だ」ということになるのでしょう。

とは言え、そういう解釈が、すべての人間に対するすべての瞬間についての「完全な答え」とはなりえないものと思われます。

なぜなら、つねに、そしてあらゆるところに、俗な人間である「衆生の民」というのは現に存在しているからです。

エゴ(意識)が「なるほど、煩悩にまみれた暮らしなど虚しいものだ」などと思ってみても、そのこと自体にはさして大きな意味はありません。

なぜなら問題は、エス(無意識)がそのことに同意するかどうかに掛かっているからです。

どんな認識も、そのものとしては「答え」ではなく、選択肢の一つにすぎません。

認識はエゴのものであり、しかし答えを出すのはエスでしかないからです。

ぺんたか
ただ、頭の中だけで、「執着すてなくちゃダメだよねー」なんて思っても、意味ねぇってコトか。
コンドーさん
逆に言うと、「理屈はどうあれ、もう執着することができなくなっちゃった状態」が、「悟りの境地」ってコトかな。

 

 

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