今回は、通信教育でボロ儲けしたらしい、ハアネル版の「引き寄せの法則」でーす。
ボクも、あやかりたいデス。
チャールズ・F・ハアネルによる1917年の著作です。
「引き寄せの法則」の火付け役となったロンダ・バーンによる『ザ・シークレット』においても多数引用されている、まさに原典とも言えるものとなっています。
当初は通常の書籍の形でなく、24週に渡る通信教育のスタイルで読者に届けられたものとのことです。
なお、以後の引用については、特別に記してある以外、ザ・マスター・キー』チャールズ・F・ハアネル、菅 靖彦訳(河出書房新社、2007)によっています。
もくじ
「はじめに」の章について
望みを実現する鍵は精神にあるため、思考を肯定的なものに変えることで自らがエネルギーに満たされて成功のチャンスが見えるようになり、同時にそのような思考は周囲の人にも広がるのだ、と主張されています。
これは、「引き寄せの法則」の考え方の基本的な内容を示したものと言えるでしょう。
また本書が、マインド・パワーの使い方を伝授するものであることが示されています。
成功のためのマスター・キーがあると言われれば、「それさえ身につければ、どんな扉も開かれる」と想像されるため、多くの人が心の中にポジティブな感情が呼び起こされるのを味わうことになるでしょう。
ここでは、それ自体が一つの仕掛けとして働いています。
つまり、そうやって「願望実現のための鍵があるのだ」と告げて、「遠くない未来に望みが叶えられるだろう」という期待を抱かせ、良い気分を味わわせれば、読者の無意識がその答えを探し始めることになるということです。
なお、当サイトの記事においてすでに、「イメージを感情をセットにして繰り返し味わうことで、イメージされたものを実現させるように頭が働く」ということを確認しています。
要するにハアネルは、そういう心の働きを教えようとする「はじめに」の文章の中ですでに、まさにその方法そのものを使っているわけです。
期待できそうデス。
続きをハリキッテ、見ていきまショー。
「第1週 すべてのパワーは内側からやってくる」について
この章では、外の世界は内面世界が反映したものであることや、そのため思考こそがものごとが発生させる原因となることなどが主張されています。
また、内面世界との関わりは潜在意識を通してなされ、また、潜在意識こそが宇宙精神とつながる鍵であることが示されています。
続いて、下記のような、いわゆる「宇宙一元論」が展開されています。
たった一つの原理ないし意識が宇宙全体に行き渡っており、すべての空間を満たしているということに異を唱える者はおりません。P26
思考する「意識」は宇宙にたった一つしかなく、その意識が考える時、その思考は客観的なものになります。この意識はあまねく行き渡っているので、それぞれの個人の中にも当然存在しています。P27
書かれている「異を唱える者はおりません」という言葉はあからさまな嘘ですが、要するに「私はそう信じている」ということを言いたいのでしょう。
展開されている「宇宙一元論」は、「引き寄せの法則」の元になっているニューソートの考えに由来するものと思われます。
ニューソートについての著作に関するレビューは、コチラにあります。
ニューソートについて簡単に説明すると、「あらゆる物質を作り出す元になっているものが、宇宙に遍在していると考え、それを神と捉える」というような思想です。
つまり、ここで述べられているのは、「そういう神がいるので、それに向けて祈れば願いは実現する」という「信仰」だということです。
なお、章の最後では、瞑想のエクササイズをするように指示がされています。
このようなエクササイズについては、これ以降もほとんどの章の最後に記されており、願望実現のためにするべき訓練として説明されています。
「ボクはそう信じてマス!」って話なので、同じ信者じゃなきゃ、「あーそー」ってなっちゃうわナ。
「第2週 潜在意識の驚くべきパワー」について
ここでは無意識の力は大きなものであること、また無意識の性質、活用の仕方などについての解説がなされています。
そして、潜在意識は暗示を受けやすいこと、悪い暗示は良い暗示で置き換えるべきことが説明されています。
潜在意識が状況を変える力を持つ理由については、「(潜在意識は)宇宙精神の一部だから」という単なる信仰告白にすぎない言葉で片付けられています。
また、「宇宙意識の創造的パワー」(P43)の稼働を支配する法則として、「引き寄せの法則」が存在するとしています。
「引き寄せの法則」という言葉が出てきましたが、その詳しい内容については、まだ説明されていません。
「第3週 身体の太陽」について
章の表題にある「身体の太陽」と呼ばれているのは、太陽神経叢(たいようしんけいそう、別名ソーラープレクサス)であり、これは胃の後ろにある神経が網目状構造に集まったもののことです。
この章では、意識の働きを脳、無意識の働きを太陽神経叢に由来するものとして、対比をして説明しています。
また、この太陽神経叢は、個人が宇宙意識と出会う地点としても捉えられています。
そのため思考が願望を現実化するプロセスについては、初めに意識(脳)から太陽神経叢(無意識)に指令が出され、それが宇宙意識に届くという流れになるようです。
そして、この流れを作り出すスタート地点が潜在意識への願望の刻みつけであり、その具体的な方法が願望の対象を念じることだとされています。
また章の最後では、リラクゼーションのエクササイズが勧められ、これによって太陽神経叢の準備が整い、心の機能がフルに発揮されるのだという説明をしています。
このように太陽神経叢を無意識の座として捉える見方は興味深いものですが、調べてみたところ、いわゆる第三のチャクラがこの場所に当たるのだそうです。
つまりは、著者の話にはヨガの知識が含まれているということです。
「腸は、第二の脳」などとも言われますが、その腸を支配下に置くのが太陽神経叢なのだそうで、これ自体を「第二の脳」とする考え方もあるとのことです。
しかし、太陽神経叢を無意識のありかとする見方は、少し単純すぎるようにも思えます。
最も広く考えるとするなら、脳以外も含めたあらゆる神経細胞の活動のうちで意識化されない部分に関係するものの全体が「無意識のありか」だとも考えられるからです。
とは言え、太陽神経叢を無意識のありかと考えることによって現実的な効用が望めるとするならば、それはそれで当人にとっての真実だとは言えるでしょう。
また、リラクゼーションのためのエクササイズについては、不安や怖れといったマイナスの刻みつけを潜在意識に対して行うのを避けることが目的であると思われます。
願望を実現させるためには、一度、心を凪の状態に持っていき、その後でプラスのイメージを刻んでいくという流れを作ると良いとされているというわけです。
「引き寄せの法則」ってヨガとも関係あんの?
19世紀の最後のあたりでヨガがアメリカで若干広まったようで、そこでニューソートと結びついたみたいデスね。
ニューソートって、「いままでのじゃないもの」を求めるっつーようなトコがあるので、ヨガみたいな知らなかった感じの考え方と相性がよかったのカモね。
知らんケド。
「第4週 パワーの秘密」について
(宇宙一元論により)全体が一つであるから利己的であることは正しくなく、全体の利益を目指すために自らをコントロールし、理想的な状態をイメージできるようにすべきだと主張されています。
また、そういうイメージを現実化に導く情動を呼び起こす鍛錬をすべし、と説いています。
要するに、イメージを感情とセットにして思い描け、という「引き寄せの法則」の基本的な戦略の話です。
さて、ここで「利己的であること」についての当サイトの考え方を少し書いておきます。
まず、利己的な考えを繰り返し抱いていると、「自分もまたそういう利己的な人々に囲まれて生きている」という思いが、無意識に植え付けられることになります。
自分が利己的に考えていると、周りの人もそうに違いないと、自然と思えてしまうというようなことです。
しかし、そうすると心のなかで、世の中に対して否定的な態度が作られることになってしまうわけです。
逆に、利他的な態度や行動というのは、多くの人が思う以上に喜びを増してくれるものだと考えられます。
なぜかと言えば、人間はこれまで長い期間ずっと、助け合いをしながら生き延びてきたと思われるからです。
周囲の人の利益も考慮すれば、孤立しているよりも生存の確率は上がります。
そのため、利他的な行動を進んで行うような人、それに喜びを感じるような種類の人が、生き延びてきたと考えられるわけです。
つまり、利己的な人間も、利他的な人間も色々に生まれてきたわけですが、結果として生き延びる可能性の高かった利他的な傾向を持った人間が、自然と選ばれるように生き残ったということです。
こうした進化論的な「選択」によって、利他的なことをすると喜びを感じてしまうような人間が、いま生きている人間の多くを占めることになったものと思われます。
大事なのは、「自分のことだけを考えるのはよろしくない」という考えが、ただ道徳的ルールというのではなく、じつは自分の利益のためであるという点です。
そこには、人のためが自分のためになるという一種の矛盾、反転があることになります。
人のために動けだぁ?
ボクは、とにかく自分自身が金持ちになりたいんダよ!
そうであればこそ、周囲の利益になるように行動しろって話デスよ。
「第5週 心の家の作り方」について
思考こそが原因であり現実はその結果であること、またパワーは内側にあり、内側からやってくるがその流れを作るのは「与えること」であり、それによってまさに受け取ることができるのだとの主張がなされています。
そしてその源となるのは、「神から下され、あらゆる被造物に生命を吹き込む神聖な力」(P76)として説明されています。
明確に宗教的な記述が登場しているわけですが、特に以下のような記述はニューソートで言われるところの「神的流入」を思い起こさせるものです。
無限の源である宇宙精神から直接流れる力に基づき、しっかりした意識の土台を築いてください。P76
なお、ニューソートについての著作についてのレビュー記事は、コチラにあります。
こういう書きぶりから、「引き寄せの法則」について記してきた他の多くの著者と同様、やはりハアネルの思想もまたニューソートの影響下にあるということが分かります。
なお、冒頭に書いた「パワーは内側にある」という表現は、「すでにその力を持っている」ということを示唆するものです。
そして「パワーが欲しければ、すでにそれを持っているとイメージしなさい」というのは、本書に限らず、一般的な意味での「引き寄せの法則」が教えている内容と同じものです。
そもそも「引き寄せの法則」って考え自体、「自分は望むものを引き寄せられる!」って感じのシソーだからネ。
「第6週 注意力を養う」について
思考が持つ力を活かすには集中力や注意力が鍵となり、それは訓練によって獲得できると主張されています。
逆に言うならば、「多くの人が願望を実現できないでいるのは、曖昧なイメージをほんの短い間だけしか抱くことができないでいる点に、原因がある」ということになるのでしょう。
この他にも様々なことが書かれていますが、これまでの内容の繰り返しや補足が多くなっています。
ところで、「集中力を鍛えるべき」という著者の主張については、当サイトとしては少し違うように考えています。
と言うのも、ある程度は鍛えられた集中力によってイメージが活性化されるとは思われますが、そもそも「努力して集中を続ける」ということ自体が、無理のある話だと考えるからです。
実際には、集中したかったり、自然と集中してしまうようなものを見つけ出すということがまずあって、その結果として集中力が発揮されるというのが順番というものなのではないか、ということです。
「第7週 イメージの威力」について
ビジュアライゼーション(ビジュアリゼーション、観相)についての章です。
望むもののイメージを「細部に至るまで完璧に」思い描くべきことの重要性を説いています。
借金について考えるのでなく豊かさについて考えよ、というお馴染みの話も出てきます。
イメージしたものが現実化される理由については、スピリチュアルな説明がなされています。
つまり、体を形作る細胞たちには、「必要な物質を、自分に引き寄せることができるサイキックな能力を授けられてい」(P99)るからだというものです。
当然ながら、これは説明ではなく単なる仮定であり、想像にすぎないものです。
当サイトではこの点について、「願望のイメージが刻み込まれると、まだ実現していないその状態を空白と捉えて自然と埋めようとする傾向が無意識にはあって、そのためのデータ収集とその分析、現実化策の検討を自動的に行われるために、願望が現実化される」と考えています。
無意識の性質に関する記事については、コチラをご覧ください。
「第8週 想像力を養う」について
自らの願望を実現する前提を見出すために、それが何から成り立っているかを分析すべきであることが説明されています。
また、章の最後のエクササイズにおいては、戦艦が作られるまでを起源にまで遡って考え、これが浮力についての法則にたどり着くことを示しています。
つまり、このようにして頭の中でイメージする力を鍛える努力をすることが大切だということのようです。
けれども、こうした主張は一般的な意味での「引き寄せの法則」とは、かなり違っています。
なぜなら、努力して意識したり分析したりすることは必要でなく、「感情とセットでゴールをイメージすることが、現実化に必要なデータも材料も操作も与える道を見出させる」というのが、いわゆる「引き寄せの法則」の考えだからです。
著者のハアネルについては、どのような人物であったかについてあまり知られていないようですが、彼の言葉からは東洋思想への傾倒が感じられ、そこから影響を受けた、「喜びや悟りに至るためには修行(のようなもの)が必要だ」という類の発想があるように思われます。
「第9週 肯定的暗示の活用法」について
本書の題名である「マスター・キー」とは「引き寄せの法則」のことであると記されています。
また、否定的な考えが浮かんだら、肯定的な言葉を唱えよと説いています。
つまりは、アファメーションについての章ということになるでしょうか。
アファメーションの具体例として、次のようなものが挙げられています。
わたしは非の打ち所のない全体で、力強く、愛と調和に溢れ、幸せだ。P128
なお、アファメーションというのは一種の祈りとも解することができますが、祈りの言葉というのは非指示的である方が望ましいということが、すでに知られています。
非指示的というのは、「特定の望みを表現するものではない」というような意味合いです。
もっと具体的に言うなら、「あの人とペアになりたい」という風に限定的に望むのでなく、「理想的なパートナーが欲しい」という具合に少し緩めに望むというような話です。
このように「望みを唱える場合には、大まかな内容のものの方が良い」という点については、自己暗示による治療を多く行い、大きな成果を挙げたエミール・クーエの考えとも符合しています。
上記のアファメーションについても、個別具体的なものでなく、全体的な内容になっていることが分かります。
ちなみに、クーエが勧める暗示の内容は、「Day by day, in every way, I’m getting better and better.」とされています。
訳すとすれば「日に日に、あらゆる面において、私はより良くなっている」といったところでしょうか。
なお本章では、「宇宙の法則」と「引き寄せの法則」と「原因と結果の法則」とが、同じものとして記されていますので、参考として書いておきます。
要するに、「ハッピーになるって目的のためには、本当はそれじゃなくてもイイんじゃない?もっと広く考えてもイイんじゃない?」って望みが多いってコトだね。
「第10週 思考は宇宙と個人をつなぐリンク」について
ここでは、思考こそが願望を現実化する「マスター・キー」であると主張されています。
しかし、実際に事をなすのは我々ではないとも説かれています。
このような「目指すべきゴールについてのイメージは大事だけれども、それを実現するための手段や方法については考える必要はない」という主張は、「引き寄せの法則」における一般的な考え方だと言えます。
上記の内容にあわせて、ただし書きとして、「望むことを思考するとき、それが無限の心と同調していることが必要だ」とも説明されています。
ここで否定されているのは、「破壊的ないし競合的思考」(P141)ということです。
この「破壊的」と「競合的」という言葉について、少し考えてみましょう。
具体的な説明は書かれていませんが、「破壊的思考」というのは、例えば殺人であったり盗みであったりということになるでしょうか。
これを本書が前提とする「宇宙一元論」的な解釈で言うなら、「それは神の意志に反する」ということになろうかと思います。
当サイトの解釈では、「殺人や盗みが否定されるのは、進化の過程で選び取られたルールに反するから」ということになります。
殺したり盗んだりすることは、社会を不安定にさせるものであり、結果として、自らの命の存続にもマイナスの影響を与えるものです。
そのため、一時的な利益があるとしても、そのことを否定的に考えるような人間が生き延びてきたと考えられます。
結果として、心からその正しさを納得したり肯定したりすることはできないのだから、その道を選ぶべきではないということになるわけです。
一方で、「競合的思考」というのは、「自分があらゆる点で競争状態に置かれている」という考えであって、これは「物事が不足している」というイメージから生み出されるものと考えられます。
このような発想は、周囲の人間にも「不足」の考えを呼び起こさせるもので、実際に存在する以上の「不足」の状態を実現してしまうものです。
つまり、誰かが「足りない」と思えば、その周りにいる人々も「足りない」というイメージにとらわれてしまうようになりがちだということです。
例えば、災害時に食料や日用品を不要な分まで買い占めて、実際には使わずに無駄にするような状態を考えれば、分かりやすいのではないかと思います。
イミフですわー。
単純に言えば、「必要なモノが不足している」と考えるコトは、「本心」から言うなら、もうそれ自体がウレシクない話なんだから、そんなのはヤメとけって話です。
「第11週 帰納的推理と客観的な心」について
帰納というのは、言うまでもなく、個々の事例から一般的な法則を見出すことです。
そして、ここで主張されているのは要するに、「物事の本質を捉えよ」ということであるようです。
帰納法についての説明の後には、「何かをなそうとするなら、それがすでに達成されていると信じる」(P150)という「引き寄せの法則」ではお馴染みの方法が示されています。
しかし、この考えが帰納とどう関係するのかについては、あまりはっきりしません。
どうやら、願望を実現しようとするときに、個々の状況への配慮を捨てておいてゴールだけを望むという態度が、帰納という「本質を取り出すときの方法」に似ているということを言いたいようです。
けれども、現実化を一般的なものから個別のものが引き出されることのように描いているとも考えられ、だとするならば、それは帰納ではなく演繹だということになります。
全体としては、「一般的な考え、いわゆるイデア的なものが現実化の元になるアイデアやイメージであって、それを見出すのが大切だ」ということを言いたいようです。
つまり、客観的で抽象的な考え、というようなことでしょう。
そして、それを見出すためには、瞑想を行うのが効果的であるという主張がなされています。
ラーメンに乗ってる焼豚みたいなコトかいな。
「第12週 引き寄せの法則」について
「引き寄せの法則」についての章ですが、言葉の定義をするような書きぶりはなされていません。
おそらくは、次のような内容を言っているものと思われます。
思考はわたしたちが望むものを生み出し、近くに引き寄せる力を持っています。P159
思考はその対象と関わり、心の中で起こったことに対応するものを物質世界に生み出す性質があります。P163
そして、以下のような説明が加えられています。
思考と対象に関わるダイナミックな力を与え、いかなる逆境をも乗り越えることを可能にする原理、それが引き寄せの法則です。それは愛の別名であり、万物に内在する永遠の根本原理です。P163
ここで疑問に感じるのは、「愛の別名」と呼ばれている「引き寄せの法則」ですが、それはプラスにもマイナスにも働くものではないかという点です。
つまり、ハアネルの言い方では、ただプラスの面だけを「引き寄せの法則」としているように見えるという話です。
これについては、次のように考えることができます。
すでに書いたように、本書の考え方はおそらくニューソートの思想に根ざしています。
そのため、素晴らしいものをもたらしてくれるのは「神」たる「宇宙意識」によるものであり、そうでないものは、その「神」から離れたことによる悪影響だと捉えられているということです。
新約聖書のヨハネによる福音書の言葉デスね。
「第13週 夢は実現する」について
まず科学的な発展の多くが、帰納的な分析によることが示されます。
そして、そのためには個々の現象に対して十分な注意を払う必要があることが説かれます。
また、そのような注意は霊的なものにも向けられるべきであるし、それが霊的なものを解明するだろうという話が展開されています。
その後の文章で霊的なものとして示されているのは、宇宙一元論的な「万物を生み出す根源物質」(P178)です。
そして、思考の現実化をもたらす「神」=「万物を生み出す根源物質」への信仰が足りないことこそが現実化を阻む原因だと主張されています。
結局、ここに至って文章の内容は、完全に単なる信仰告白となってしまっています。
本人がどう思っているかは分かりませんが、この主張から判断するなら、ハアネルは紛れもなくニューソート思想の信者であると言えるでしょう。
やっぱり信者ちゃんだったカー。
「第14週 潜在意識は宇宙精神と一つである」について
あらゆる微細なものに独自の働きを見て、それを「神」たる「宇宙精神」の表れであると説いています。
例えば、個々の細胞の働きに「心」の存在を感じ取り、それを「潜在意識」と呼んだりしています。
しかし微細なものが独自の機能や原理を持つからといって、必ずしもそれらすべてに「神」が宿っているということにはなりません。
通常の意味では、単なるシステムを「神」とは言わないからです。
生物が持つ働きがDNAに書かれた情報を通して受け継がれていくということは、現代においては、すでに知られているところです。
それを知らない時代においては、進化により選択されたものの複雑さや微妙さに、畏敬の念を感じるのも不思議な話ではありません。
そして、そこに神の手による意図的な操作を夢想するのもまた、自然なこととも言えるでしょう。
けれども、それは単なる物語にすぎないものです。
残念ながらこの章は、ただ著者が信じたいことのために、そうであったらよいと思うことを語っているだけだと感じられるような章です。
要するに、「すべてはひとつ(のものの色々な表れ)!」と考えたいのでしょう。
「第15週 わたしたちの暮らしを支える法則」について
生活において与えられるものは、困難や障害と思われるものであっても、自分のためになるものなのだと主張されています。
これについてもまた、「神の御手によるもの」ということを言いたいのであって、単に著者がそう信じている、そう考えたいというだけの話かと思われます。
もちろん、そのように世界を捉えることで得られる効用はあるとは思いますが、そういう話であるなら、そのように書くべきものと言えるでしょう。
続いて、願望は言葉を使って表現されるため、言葉を慎重に選び正確に組み立てる必要があり、そのスキルこそが成功へのパスポートであるとの説明がなされています。
加えて、望ましい言葉を探し出すためには洞察力が必要だ、としています。
この部分の主張については、特に大きな異論はないところかと思います。
しかし、では洞察力はいかにして鍛えるかという点については、簡単なエクササイズが書かれているだけです。
具体的には、下記のような内容を突き詰めて考えれば、「分かるはず」(P203)としています。
わたしたちが自分自身に知識を適用できる唯一の方法は断固とした意識的な努力によってです。P203
他にも、考えるべきとされる内容がいくらか書かれてはいますが、いずれにせよ「分かるはず」というのでは説明の放棄と思われても仕方がないようにも思われます。
また、「断固とした意識的な努力」というのは、かなり主観的で曖昧な表現と言わざるを得ません。
さすれば、万事解決なのでアリマス!
ってか?
としか・・・。
「第16週 スピリチュアル・パワーを発揮する」について
富は手段であり、それが得られるかどうかは、より高次の理想を抱けるかどうかによるとされています。
そして、そのようなイメージを持つことが鍵だと主張しています。
またイメージが持つべき性質として、「印象の深さ、アイディアの重要性、ビジョンの明確さ、イメージの大胆さ」(P211)、「感情の強さ」(P212)といったものが挙げられています。
イメージを明確にすべしというのは、「引き寄せの法則」の関連書籍ではよく言われることです。
ところで、「イメージが明確である」と言えば、細部に至るまではっきりしているという意味と捉えられることが多いように思いますし、確かにその点も重要でしょう。
けれどもより以上に重要なのは、そのイメージが明確な価値を持つことだと思われます。
つまり、単に自分だけの欲を満たすものではなく、それが実現することに社会的な価値があると思えるようなイメージだと、現実化への強い力があるという話です。
なぜそうなるかと言えば、願望が実現するためには、「感情の強さ」が重要であって、なおかつ社会的な価値がある願望は、自分だけの利益よりも強く求めることができるからです。
イメージについての説明の後には、「宇宙精神は善でも悪でもありません」(P212)との説明がありますが、この点については「引き寄せの法則」を「愛の別名」(P163)としていた主張との関係が不明です。
つまり「愛ではあるが、善でも悪でもない」というのは、どういう話なのか分からないということです。
またこの章では、「なぜ思考に感情をこめるべきか」についての説明もなされています。
それは、感覚というものには感情の感覚しかなく、それ以外の感覚は感情の変種にすぎないから、というように説明されています。
しかし、この説明では、その意味するところがまた判然としません。
たとえ感情が唯一の感覚だとしても、だからそれを込めるべきだという結論がなぜ出るのかが不明だということです。
最後に、意志によってビジュアライゼーションを導くべしとの主張がなされています。
これはおそらく、自らが深いところでその願望に同意できなければ実現は見込めないという意味合いではないかと思われます。
しかし、エゴ(意識)によって、エス(無意識)を手懐けることができるというような主張にも感じられ、全面的に同意できるような内容ではありません。
そもそもよくワカラン話なので、ナントモ言えない感じが満載なんだけどネ。
「第17週 象徴と現実―真の集中」について
まず、集中は思考や知識をもたらし潜在意識を目覚めさせるものだ、との主張がなされています。
集中によって直感力が働きだし、それが必要な情報を獲得させる元となるというようにも言われています。
ただし、ここで登場している、集中、潜在意識、直感力と言った言葉については、厳密に何のことを言っているかの説明はありません。
また、それぞれがどう関係しているかについては、大まかな記述しかないため、感覚的な理解しかできないように思います。
続いて、名声、財宝、地位といったパワーの象徴でなく、名誉、富、奉仕といったパワーそのものを求めるべしとの教えが説かれています。
求めるものが象徴にすぎないのか、パワーそのものであるのかの判断の仕方については、次のような記述がヒントになりそうです。
あなたがどの程度成功できるかは、どんな願望を抱くかによって決まります。もしあなたの抱く願望の性格が自然の法則ないし宇宙精神に調和していれば、あなたの心は徐々に解放され、揺るぎない勇気を得るでしょう。P225
このような考え方は、ヒックス夫妻版の「引き寄せの法則」で言われるところの「感情というナビゲーションシステム」の考え方に近いものだと思われます。
つまり、ただ頭の中での結論を重視すべきなのではなくて、感覚として自分自身が同意していることが大切だという話です。
「宇宙精神に調和していれば」と言われると意味が掴みづらいですが、「自分にとってしっくりくるような選択」と書けば、分かりやすいのではないでしょうか。
章の最後では、「物の基本原理や核心、スピリットを把握する」のが重要であるとの主張がなされています。
しかしこれは、トートロジー(同語反復)的な表現です。
なぜなら、基本原理や核心、スピリットという言葉の詳細な意味合いが語られておらず、そのため「重要な部分」という程度の意味としか捉えられないからです。
つまり、「重要な部分は、重要だ」と、ただ当たり前のことを言っているにすぎないという話です。
「第18週 新しい意識の目覚め」について
再び、「宇宙精神」に対する信仰告白が記された章です。
まず、あらゆる生き物が宇宙精神によって支えられており、植物、動物、人間というヒエラルキーの理由は全能の知性たる宇宙精神との近さによるものだと主張されています。
そして、宇宙精神と近づけば近づくほど、大きな力を利用することができるのだとされています。
続いて、思考が個人と宇宙精神を繋ぐ鎖であり、それが「引き寄せの法則」を作動させるエネルギーだと説かれます。
また、思考のパワーを操るには注意力が必要で、注意力を鍛えるには訓練しかないとされ、具体的には注意を払い、関心を呼び覚ますことがそれに当たるとされています。
以上のことを逆向きに説明すると、次のようになるでしょう。
様々なことに注意を払えば関心が呼び覚まされ注意力が鍛えられて、思考のパワーを操ることができるようになり、結果として宇宙精神とのつながりができて、願望を叶えることができる、と。
しかし、問題なのは、この宇宙精神とのつながりという部分です。
思考のパワーにより願望を実現することの根拠を宇宙精神に求めるとするならば、それは「祈れば与えられる」という旧来の宗教的な考えと、さほど違っていないものと言えます。
つまり、わざわざ多くの言葉を費やして説明するほどの内容ではなくなってしまうということです。
当サイトでは、「引き寄せの法則」を世界をどう捉えるかに関わる一つの思想と捉えています。
また、願望が実現するのは、人間が相互に無意識的な影響を与えあっているためだと考えます。
つまり、「祈れば与えられる」のは、いわゆる「神」の力によるものではないということです。
ただし、そういうことが実現してしまう不可思議さを神の仕業と勝手に考えることは、もちろん不可能ではありません。
なんか、ウレシクないなぁ。
「第19週 運命を制御する」について
無知が知識の不在であり悪が善の不在あるように、一方で原理となるものがあり他方はその不在にすぎず、実際に働いている原理は心(=「宇宙精神」)だけだと説かれています。
同時に、すべては変化し移ろうが原理としての心だけは変わることがない、とされています。
つまり、引き続き「宇宙一元論」についての説明が展開されており、またその賛美がなされているわけです。
ポイントは、無限にある「根源物質」(=「宇宙精神」)がすべてを生み出す原因であり、そこに働きかけるのが思考だという点です。
何度も指摘してきましたが、これはニューソートの思想そのものです。
そしてまた、書かれている内容は、ほとんど何の説明にもなっておらず、単なる信仰の告白にすぎないものです。
ここで語られている「宇宙精神」というのが、何を意味しているのかについて、少し考えてみましょう。
例えば、愛というのは、人間を結びつけ、協力させ、生き延びさせてきた心の傾向と表現することができます。
子供を産み、育てることに役立っていることはもちろん、集団の中で力を貸し合い、メンバーの生存率を上げてきたもととなっている感情が、つまり愛です。
そのため、いま生きている人間たちはほとんどが、愛を心地よいものであると感じるような種類の人間だという結果になっているわけです。
逆に言えば、パートナーにも仲間にも愛情を感じないような種類の人間も生まれてきたはずですが、そういう傾向を持った人間は生き延びることができなかったと考えられることになります。
このように進化の結果として人間に備わった傾向性を、何者かが与えたものとして考えて、その贈り主を「神」と呼んだり、「宇宙精神」と読んだりしているものと考えることができます。
そして、親密さを喜ばしいと感じて生存率を上げようととするような人間の特徴は変わらないために、それが原理であると捉えられることになるわけです。
進化の結果として人間に備わった傾向が「原理」であり、それを授けた側と夢想されたのが「神」であるとな!?
わりとイイ感じで説明がついている気がしますワ。
「第20週 人は求めるものしか得られない」について
あらゆるパワーの原因が「宇宙精神」にあり、そのことを認識し、思考を活用すればそのパワーが利用できるという説明がなされています。
そして、そこでの認識には、自分自身の中にも「宇宙意識」があるということも含まれているとされてます。
なぜなら、そもそもすべては、根源的な物質「宇宙精神」から生まれたと仮定しているからです。
けれどもそのような信仰を持たない立場から言うとすれば、むしろ方向は、その逆だろうと思われます。
つまり、まずもって「自分自身には力がある」と思いたい人間の姿があって、そこから「宇宙精神」なるものを思い描かれ、パワーの原因をそこに求めたのだろうという話です。
前章ですでに説明しましたが、ここで想定されている「宇宙精神」をもう少し広く解釈すると、それは進化の過程で身についた「倫理」だと捉えることができます。
「倫理」というのは、もちろん「人が踏み行うべき道」のことであり、例えば、「互いに協力し合え」「幼き者は慈しめ」というようなことです。
そうしたルールを守ることに喜びを感じない種類の人間も生まれてきたでしょうが、自分たちが生き延びたり、子供が命を繋いだりする可能性が低くなりますから、すでに滅びていると考えられます。
倫理的なものについては、進化によって得られたものであるために実践をすると喜びを感じ、また協力者も集められることになって、だから願望の成就が大きく促されることになると考えられます。
以上のような考えからニューソートの思想については、「進化の過程で人間の心に深く刻み込まれた倫理性を尊重すれば、喜びが得られ、また願望の成就の可能性が上げられるとの教えを「神」に絡めて説明したもの」と見ることができることになるわけです。
逆に、倫理に合致しない望みは、自分自身が心から深く同意することができないために力が弱く、だから実現が見込めないことになると説明されることになります。
なお、ここで倫理と呼んでいるものの範囲は広く、その中には、いわゆる楽天性のようなものも含まれるものと思われます。
そのことは「抑うつリアリズム」の理論を見れば明らかです。
つまり、うつ病の状態の人の方が現実を正確に把握しており、逆に言えばうつでない人には、現実以上に世界を楽観的に捉えるポジティビティ・バイアスがあるということです。
積極的なものの見方は成功や喜びと繋がっており、消極的なそれは失敗や抑うつを引き寄せることになるという話です。
って話?
えへー。
「第21週 人間は平等である」について
つまらないことに悩まされているときには、大きなことを考えるべきとのアドバイスが示されています。
そして、そのようにして心に抱く思いが現実を作るのだという教えが説かれています。
続いて、心の姿勢は脳内のイメージに影響を受けているので、それを変えるためにはビジュアライゼーションが有効だとしており、習慣的な訓練が力を持つとされています。
また、人生は観念の戦いであり、進歩を求める創造的な側と後戻りをする否定的な側の二種類が争っているのだと説明しています。
否定的な側はそれを認めようとしないが、すべての人が同じようにスピリチュアルなパワーを持つとされ、ただそのことを知らない人がいるだけだと主張しています。
すべてのものが「宇宙精神」から生み出されたとする本書の主張、つまりニューソートの考えからすれば、すべての人間が平等であるという考えは自然なものと言えるでしょう。
この点を当サイトの考えから分析するとすれば、次のようになります。
- 誰しも平等であるという考えは、そうではないとするものよりも多くの喜びを抱かせるものと言える。
- なぜなら、不平等であるとするなら、いま現在は逆の立場にいるのだとしても、虐げられる側に回る自分ということも想像されるから。
- つまり、平等性というのは、進化の過程で得てきた喜びの感情とマッチしている。
- そのため後ろ暗いところがなく、本質的にパワフルである。
- このような思想を採用していくことが、心の姿勢を積極的にし、自分自身を力で漲らせることに繋がり、だから成功を引き寄せる原因になる。
なんて言われてもなぁ。
ボクはただのペンギンの赤ちゃんデスから・・・。
「第22週 波動の法則」について
「波動」についての章です。
「引き寄せの法則」の正しさを主張する書籍の多くが、この波動による説明を好みます。
しかし、その内容は大づかみで不明瞭なものにすぎず、ただの想像としか言えないものです。
実際、確かにあらゆる物質は振動をしています。
けれども、その振動を整えることで問題が解決されるとするのは、ひどく荒っぽい理屈と言わざるを得ません。
著者は「心の活動が波動であるとわたしたちは知っています」(P276)としていますが、心も波動もあまりに曖昧な表現で、その意味するところはぼんやりとした感覚、印象としてしかつかめません。
なお、宇宙に存在するあらゆるものがただ一つの物質からなっているとする考えに「超ひも理論」がありますが、これはまだ仮説にすぎないものです。
すべてがただ波動によってどんなものにも変化するということも、思考が波動に影響を与えるということも、単なる想像にすぎないものです。
また、次のような記述からは東洋的な「修行」の概念が見て取れます。
健康への道はあらゆる科学の基礎である波動の法則の上に打ち立てられます。この法則は心すなわち「内面世界」によって動かされます。それは個人の努力と訓練の問題です。P279
しかし我々は、あらゆる病気を内面世界への働きかけのみによって治そうとする考えが必ずしも正しくないことを、すでに知っています。
つまり、実際にプラセボが無視できないほどの効能を持ち、また祈りが病気の症状を抑えることが確認されるなど、そのような働きかけがとても大きな力を持っていることを認めはしますが、それが万能ではないこともまた知っているということです。
この点については、いわゆるニューソートの信者のどの人であっても、通常考えられる以上に長く生きているわけではないということからも明らかです。
この当然の事実は、ニューソートが唱える「老化ですら誤った考えを排すれば克服できる」とする思想と明らかに矛盾しています。
一般的な意味での「引き寄せの法則」の思想は、ここに危険な言い訳を用意しています。
つまり、「あなたの病気が治らなかったとすれば、それはあなたがした内面世界への働きかけが不十分だったからだ」というものです。
これは、富や名声についての話に置き換えても、まったく同じことです。
何かを信じるということ、つまりもはや疑うことをしないという態度には、非常に危険な側面があるということが分かるわけです。
また、「引き寄せの法則」についての解釈を現代的なものに編み直す必要があるということも言えることになるでしょう。
いずれにしても、少なくとも一つのパーツが抜け落ちていて、それはたぶん、自分にしっくりくる感じの望みじゃないと実現はムツカシイってコトだよ。
「第23週 お金とスピリチュアリティ」について
この章では、成功のためにはまず与えること、そのためには集中した熟慮が必要だと主張してています。
また、知り合いの成功者の例を挙げ、その成功の理由を「スピリットである彼が、自らの源と調和し、多少なりともそのパワーを顕在化させた」(P292)ためと説明しています。
また、「スピリチュアリティはこの世でもっとも「実用的」なもの」(P294)として、それを活用できればビジネス面での成功は容易なものであるとも述べています。
これまで何度も説明したとおり、当サイトでは「引き寄せの法則」を無意識的な心の働きによるものと考えています。
それを利用する際に重要なのは、エス(無意識)が望みに同意することです。
著者のハアネルは、この点について、上記のとおり「自らの源と調和」というように表現しています。
つまり、「引き寄せの法則」をニューソートの一神教的な「宇宙精神」への信仰から考えるとしても、当サイトのように無意識の現実的な作用と捉えにしても、自らとの調和が重要である点は変わらないわけです。
逆に言うとすれば、多くの人がこのような調和を失っているがために、成功できないでいると説明できることになります。
ここから当然、「いかにして調和をするのか」が問題になりますが、その点については別のコラムとして、コチラに記してあります。
本章で著者は、「少しでも無限の心の反対にあったら、何事もなしえない」(P293)としています。
この前半部分を「少しでもエス(無意識)とのミスマッチがあったら」と書き換えるとするなら、深く同意ができる内容となっています。
いわゆる、インスピレーションってヤツさ。
「第24週 心の錬金術」について
「思考が原因であり、現実はその結果である」という、すでになされた主張が繰り返されています。
また、自分自身とマッチした考えを抱くことの重要性が説かれ、その点については以下のような言葉で表現されています。
わたしたちの人生の環境や無数の状況、出来事は潜在的な人格の中にすでに存在しています。潜在的な人格が自分の性分に合う精神的な素材や身体的な素材を引き寄せるのです。P302
この言葉は、「引き寄せの法則」を無意識の働きによるものと解する当研究所の考えと完全に符合します。
つまり、重要なのはエス(無意識)の中にすでに存在する自らの「性分」を見出すことです。
この点については、他にも「自分が現実化して欲しい真実を自分自身に納得させればいい」(P299)というようにも表現されています。
重要なのは、自らの中にある「納得できる考え」というのは、つねに、すでに決まっているということです。
例えば、誰かを憎いと思うことがあったにしても、本当にその人が苦しんで死ぬようなことを心から望むことができる人間は、極めて稀でしょう。
瞬間的に強い憎悪を感じたとしても、そのような思いをいだき続ければ、自分が毒されてくるのが分かるからです。
つまり、これは「殺意を感じるような憎悪を、深く自分に納得させることはできない」ということを意味しています。
では、自分に納得させられるような考えというのは、どういうものであるのでしょうか。
それこそが、個々人が探っていくべき問題であり、そのことについて大まかな共通性はあるものの、同時に、人の答えをそのまま自分のものとすることはできないものだとも言えます。
人それぞれだよネ―ってか?
ぶん投げたナー。
どう探るかは、さっきも書いたけど、このコラムで考察しておりマス。
解題
繰り返し述べてきましたが、本書において展開されている思想は、ニューソートに基礎を置いています。
もっと言うとすれば、ほぼニューソートそのものです。
そのため、単なる信仰告白でしかない部分もたくさん含まれています。
ただし、ニューソートの思想についての洞察とそこから得られた結論については、かなり深く的確な内容を含んでいることも感じ取れる作品となっています。
おそくら、もっとも重要なポイントは最終章に書かれているように、「なすべきことは自らの内部に刻まれた情報を見出すことだ」という点にあります。
逆に言えば、第17週で「名声、財宝、地位」と表現されているようなもの、一般的に社会的な価値とされているものに心を奪われて、自分自身の喜びが分からなくなっているということです。
このように重要な指摘を含んではいますが、少々残念なところは、望ましい思考へと至る道を「修行」のようなものとして捉えている点です。
これについては、訳者による解説にも書かれていることですが、ヨガの思想への傾倒が影響しているものと思われます。
つまり、現在ではいわゆるヨガとして認識されているポーズと呼吸法によるハタヨガの実践などをとおして理解したであろう内容を重要だと考えているため、そのような修行こそが思考を鍛え上げるエッセンスだと捉えているように感じられる、ということです。
確かに、思考を変えることは効果的であり、そのためにはこれまではただ普通のこととして見過ごしてきたものをもう一度捉え直すため意識的に注意を払うというような、多少の努力は必要になります。
けれども、「引き寄せの法則」を活用するための実践方法として考えるなら、そういう習慣づけを必ずしも厳しい努力や訓練と捉える必要はありません。
なぜかと言えば、そこで行われることというのは、「自分を納得させるもの」を探す旅であり、つまりは自分にとっての喜びを掘り当て続ける道だと言えるからです。
要するに、著者のハアネルが「修行」によって深い洞察を得たのだとしても、それは修行というものがハアネル自身にマッチしたものだったところに原因があるのだろう、という話です。
もっと単純に言えば、「著者がそこから大事な情報を得たのは、単に自分が修行することを好きだったからだ」という話です。
そして、そのようにして自分の気に入る、自分の性に合うということが、何より重要だとさえ言えるということです。
いずれにせよ、多少の偏りや「神」=「宇宙精神」への信仰を含んでいるとは言え、本書が優れたものであることは間違いのないところかと思われます。
つまり、無意識や脳科学的な知見が限られていた時代状況の中で、しかし願望実現のための効果的な実践法をかなり踏み込んで考え、つかんでいるように思われるということです。
この本は、「引き寄せの法則」とはどのようなものかということに対して、一つのまとまった形での回答を与えている価値ある一冊だと考えます。
そこで満足できないといつまでも不幸だし、しかも、ナニがマッチするかということは、自分以外には分からないコトなんでネ。
【商品リンク】
⇒ amazon
⇒ 楽天
⇒ ヤフーショッピング
会員になったら、限定記事が読めちゃうYO!