研究

「死」に対するの唯一の態度

 

ココがポイント

「死」の解釈に客観的な正解はなく、感情的にしか片付けられない。


 

ぺんたか
は?
いきなり、「死」の話ですか?
no name
だってさぁ。
誰にとっても、おっきなテーマっちゃー、テーマだろ?

 

人間にとって、「死」はつねに最大のテーマの一つであり続けています。

世間では、死は、どんな風に語られているでしょうか。

まず、死と言えば、宗教ということになるでしょう。

そこでは、「死後にすべての人が裁かれ、善人は天国に、悪人は地獄に行く」というようなことが語られています。

けれども、こういう死後についての話は、ただの物語にすぎません。

とは言っても、死後なんてないという話も、同じと言えば同じです。

つまり、「死ねば、すべてが終わりだ」というのもまた、ただの物語にすぎないということです。

どちらも知りもしないことについて、無責任に語っているだけだからです。

では死について現実的に考え、解釈をするには、どうしたらよいでしょうか。

この文章では「引き寄せの法則」の考え方をもとに、死はどう捉えられるかについて検討していきます。

ぺんたか
タダの物語、とか、エラソーに。
なんでそんなコトが言えんねん。
コンドーさん
だって、あるかどうかもワカラン、誰もイッたことのない国があったとするじゃん?
で、その国についてウンだとかカンだとか語ったとしたら、それはタダの物語じゃん?

 

 

誰も死を知らない

前提として、ここで語る「死」は、自分の死についてだけとします。

身近な人や偉大な人間の死も、多くの人にとって重大な事件ではあるでしょう。

けれども言うまでもなく、誰にとっても決定的に重要なのは自らの死です。

そのため、自分の死だけの話に限定して、話を勧めます。

さて、まず死について、一つだけ明らかに言えることがあります。

それは、「誰も自らの死を知らない」ということです。

当然の話ですが、生きている人間は、まだ死を経験していません。

「臨死体験」という言葉がありますが、これは死に臨んだ、つまりは直面したということにすぎません。

つまり、死とはまったく別のものです。

要するに臨死体験で何を経験しようと、それは生の中でなされた一つの体験にすぎません。

だから、それは明らかに生の一部です。

「蘇生」という言葉には、おおまかに言って二つの意味があります。

それは、「死んだ人間が生き返ること」と「死にそうになった人間が意識を取り戻すこと」です。

現実的な意味での蘇生というのは、単に「死に瀕した人間が一命をとりとめた」ということです。

つまり、一度死んだ人間が生き返ったという話ではないわけです。

当たり前の話ですが、言葉が曖昧なままだと話が混乱するため、確認をしておきました。

結局のところ、「死」について語られるときにたびたび登場する、「臨死体験」や「蘇生」ということは、ほとんど「死」そのものとは関係がないということです。

ぺんたか
死んだ人間は生き返らない。
そりゃまぁ、そーですわな。
コンドーさん
そして、生き返ったように見える人間は、単に死んでなかった。
つまり、それだけのコトです。

 

 

死をどう捉えるかに正解はない

いまだかつて、死んだ人間が生き返った試しは一度もありません。

そう考えるのが当然の話です。

新約聖書の中には、イエスが死後に復活したという話が出てきます。

けれどもこれは、権威付けのために後に作り出され語り継がれた「単なる伝説」と見るべきでしょう。

「死後、どうなるのか」について見てきたようなことを語っている言葉は、無数にあります。

しかし、それらのすべては、ただの想像にすぎないものです。

人間は自らの死について、一切を知りません。

だから、何も語ることはできないのです。

そんな風に「死」はまったく分からないものであるがゆえに、人に不安を感じさせます。

そして、その不安を埋めるために、多くの人間が死について語ろうとしてきました。

とりわけ宗教は、死という語り得ないことについての物語を作り出し、繰り返し人々にそれを語ってきたわけです。

しかし、どれだけ多くの人が信じていようと、たとえ何千年の歴史があろうと、宗教的なものであれなんであれ「死」の解釈の正しさを証明することはできません。

生きている人間は誰も死を知らないため、死についてのどんな考えも、その正しさを証明することはできないからです。

つまり、「死をどう捉えるのが正しいのか」について理屈の面から争おうとすることには、何の意味もないということです。

no name
ドー考えたとしても、それが正しいとは言えない、と。
じゃあ、ドーしたらエエんや?
no name
ソーです。
問題は、ソコですよ。

 

 

「引き寄せの法則」と死

ここまでのことを踏まえたうえで、「死をどう捉えるべきか」を考えてみましょう。

ヒックス夫妻による本には、死については、次のようなことが書かれています。

あなたがたには物質世界の身体としての経験の総体よりももっと大きくて広い経験があり、あなたがたはこの人生で経験したことをその経験に追加していく 『引き寄せの法則 エイブラハムとの対話』エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス、吉田 利子訳(SBクリエイティブ) P245

つまり、人間は何度も生き死にを繰り返していて、その経験が過去生の集大成である「内なる存在」に追加されていくという死生観であるようです。

人間の本質は永遠に生きる「不滅の魂」で、そこに経験が付け足されていくというような話です。

しかし、これもまた一つの物語でしかありません。

誰も、その正しさを確かめることができないからです。

要するに、「信じるか信じないかだけの話」になってしまっているわけです。

そのため、ここではヒックス夫妻版の「引き寄せの法則」で語られる一つのアイデアだけに注目したいと思います。

それは、「感情というナビゲーションシステム」と呼ばれるものです。

これを手掛かりに、「死」をどう捉えるかについての考えを進めていきます。

ぺんたか
エスター・ヒックスおばさんの考えも、ココでは退けるんやね。
コンドーさん
まぁ、「永遠不変の魂がある」なんて言われても、誰も確かめられないし、ねぇ。

 

 

「感情というナビゲーションシステム」とは

まずは、「感情というナビゲーションシステム」について説明をします。

「感情というナビゲーションシステム」とは、「自分の気持ちに答えを聞いてみれば、それがどう進むべきかの正しいナビになる」という考え方のことです。

つまり、「いつでも、気持ちが軽やかになる方、少しでもほっとできる方へ進めばよい」という教えです。

例えば、何か失敗をしてしまったときに「自分はダメな奴だ」と考えると、気分が落ち込んでしまいます。

けれども、そのときに「すべてが完全にダメになってしまったわけではない」とか、「またチャンスはある」と考えることもできます。

他にも、「次のために、教訓にするべき点はなんだろうか」と考えたり、「次に活かせられる、よい経験だった」と考えたりすることもできます。

このように考えることの中には、きっと、いくらか気持ちを軽くしてくれるものがあることでしょう。

そして、もっとも気分を上げてくれる考えを採用するということをするのが、「感情というナビゲーションシステム」に従うやり方なのです。

このように、少しでも気が楽になる考えを採用していくことで、新たな活力が芽生えてきます。

そして、それを育てることによって、ネガティブな考えに捕らわれることを防ぐわけです。

同時に、「次へ進んでいく力を作り出そうとする」ということになります。

もちろん、ときには反省することも無駄ではありません。

けれども、マイナス面にばかりに意識が向いてしまうことも多いのです。

それによって、心の活力を自分で奪ってしまうことになります。

結果として反省は、全体としてのパフォーマンスが下げることになってしまいがちです。

そういう落とし穴にはまってしまうのを避けるのは、とても大切なことです。

そのために、ヒックス夫妻版の「引き寄せの法則」では、「感情というナビゲーションシステム」を利用すべきだということが主張されているわけです。

ぺんたか
自分のキモチがアゲアゲになる考え方を探して、ソレを採用すればイイじゃん?って話?
no name
ソーですね。
まぁ、そんなすぐに爆アゲにならなくても、「ちょっとホッとする」とか「なんかしっくりくる」とかでも、イイですよ。次では、この「感情というナビゲーションシステム」を「死」に対して、使っていこうと思ふ。

 

 

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